国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
登録記念物
主情報
名称
:
平敷屋製糖工場跡
ふりがな
:
へしきやせいとうこうじょうあと
平敷屋製糖工場跡
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種別1
:
登録記念物(遺跡関係)
種別2
:
時代
:
昭和
年代
:
西暦
:
面積
:
370.0 m
2
その他参考となるべき事項
:
登録番号
:
登録年月日
:
2015.01.26(平成27.01.26)
追加年月日
:
登録基準
:
所在都道府県
:
沖縄県
所在地(市区町村)
:
沖縄県うるま市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
平敷屋製糖工場跡
解説文:
詳細解説
平敷屋製糖工場は,昭和15年(1940),勝連平敷屋地域の11組の旧サーターヤー組が合併して新設された共同製糖工場であり,沖縄本島中部の東海岸に面する勝連半島先端の南側,丘陵斜面地に位置する。昭和戦前期の沖縄では,甘蔗圧搾(かんしょあっさく)に畜力(ちくりょく)を用いる伝統的な在来製糖場と,機械を用いる改良製糖場が共存していた。また,昭和3年(1928)以降,共同製糖場を新設する製糖組合に対し補助金が交付されるようになり,共同製糖場設立が促進された。そうした背景のもと,蒸気を原動力とし,共同製糖場の経営方式をとる平敷屋製糖工場が設立された。『平敷屋字誌』等によれば,工場建物は南向きで,その前面に3基の煙突が立ち,煙突の一つは蒸気機関(45馬力)のボイラーにつながり,燃料には石炭を使用したとされる。昭和19年(1944)10月の那覇空襲以降,工場は操業できず,その後,米軍の攻撃により破壊された。現在,工場跡には煙突1基,貯水槽1基が残存する。煙突は煉瓦造,高さ16.3m,煙突表面に銃痕が残るが保存状態は良好である。貯水槽はコンクリート造,深さ約3.0mである。戦前の沖縄の製糖業の歴史と技術の展開を考える上で価値のある遺跡である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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平敷屋製糖工場跡
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平敷屋製糖工場跡
解説文
平敷屋製糖工場は,昭和15年(1940),勝連平敷屋地域の11組の旧サーターヤー組が合併して新設された共同製糖工場であり,沖縄本島中部の東海岸に面する勝連半島先端の南側,丘陵斜面地に位置する。昭和戦前期の沖縄では,甘蔗圧搾(かんしょあっさく)に畜力(ちくりょく)を用いる伝統的な在来製糖場と,機械を用いる改良製糖場が共存していた。また,昭和3年(1928)以降,共同製糖場を新設する製糖組合に対し補助金が交付されるようになり,共同製糖場設立が促進された。そうした背景のもと,蒸気を原動力とし,共同製糖場の経営方式をとる平敷屋製糖工場が設立された。『平敷屋字誌』等によれば,工場建物は南向きで,その前面に3基の煙突が立ち,煙突の一つは蒸気機関(45馬力)のボイラーにつながり,燃料には石炭を使用したとされる。昭和19年(1944)10月の那覇空襲以降,工場は操業できず,その後,米軍の攻撃により破壊された。現在,工場跡には煙突1基,貯水槽1基が残存する。煙突は煉瓦造,高さ16.3m,煙突表面に銃痕が残るが保存状態は良好である。貯水槽はコンクリート造,深さ約3.0mである。戦前の沖縄の製糖業の歴史と技術の展開を考える上で価値のある遺跡である。
詳細解説▶
詳細解説
平敷屋製糖工場跡は、沖縄本島中部の東海岸に面する勝連半島先端の南側、丘陵斜面地に位置する。平敷屋製糖工場は、昭和15年(1940)、勝連平敷屋地域の11組の旧サーターヤー組が合併して新設された共同製糖工場であり、旧・勝連村において、最初に蒸気を動力に用いた製糖工場であった。 製糖工場は、サトウキビの汁液を煮詰め、それを結晶させて砂糖を作る工場である。17世紀に明の製糖法の技術を導入して製糖を行って以来、甘蔗圧搾の動力は主に畜力(牛馬などによる動力)であり、縦式の圧搾車を畜力で回転させ搾汁し、黒糖の製造を行うものであった。明治以後、水力や石油動力による圧搾・製糖が登場するが、戦前までは伝統的な在来製糖場と新しい機械を利用した改良製糖場が共存していた。一方、昭和3年(1928)から政府の沖縄県糖業改良奨励費に基づき、沖縄県は共同製糖場を新設する製糖組合に対し補助金を交付するようになり、以後共同製糖場が漸次増加した。このような状況のもと、蒸気を原動力とし、共同製糖場の経営方式をとる平敷屋製糖工場が新設された。 『平敷屋字誌』や聞き取り調査によれば、工場建物は南向きで、その前面に3基の煙突が立ち、煙突の一つは蒸気機関(45馬力)のボイラーにつながり、燃料には石炭を使用した。煙突横の貯水槽の水は、ボイラー冷却用であり、近くの井泉からポンプで水を汲み上げていた。工場内には窯と大鍋が各々3つあり、工程により順番に使用していた。徴兵のため男手が不足し、作業は主に女性が行っていたが、昭和19年(1944)10月の那覇空襲以降は疎開等のため工場は操業できず、その後、米軍の攻撃により破壊された。 現在、工場跡には、煙突1基と貯水槽1基が残存する。煙突は、イギリス積み煉瓦造で、基部の平面が正四角形で、高さ16.3mの角錐台の形状を呈する。先の大戦で米軍の銃撃を受け、煙突表面に銃痕が残るが、ほぼ原形をとどめ、保存状態は良好である。また、貯水槽は、コンクリート造、平面はほぼ長方形で、深さ約3.0mである。このように、平敷屋製糖工場跡は、戦前の沖縄の製糖業の歴史と、その産業技術の展開を考える上で価値のある遺跡である。