国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
登録記念物
主情報
名称
:
旧報恩寺庭園
ふりがな
:
きゅうほうおんじていえん
旧報恩寺庭園
写真一覧▶
解説表示▶
種別1
:
登録記念物(名勝地関係)
種別2
:
時代
:
江戸
年代
:
西暦
:
面積
:
1528.32 m
2
その他参考となるべき事項
:
登録番号
:
登録年月日
:
2015.01.26(平成27.01.26)
追加年月日
:
登録基準
:
所在都道府県
:
宮崎県
所在地(市区町村)
:
宮崎県日南市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
旧報恩寺庭園
解説文:
詳細解説
旧報恩寺(きゅうほうおんじ)庭園は日南市内を流れる酒谷川(さかたにがわ)の右岸,飫肥(おび)城下町の外側に位置する。報恩寺は飫肥藩主伊東氏の菩提寺で,天正16年(1588)に飫肥に入った初代藩主伊東祐兵(すけたけ)によって創建された臨済宗の寺院であった。明治5年(1872)に廃絶したが,その後飫肥藩士族によって板敷(いたじき)村に祀られていた伊東氏の氏神八幡社が遷され五百禩(いおし)神社となった。
庭園は,東西に延びる現社殿の軸線上の南側に位置し,急傾斜の露出した溶結凝灰岩の岩盤及びその裾に広がる細長い園池を中心とする。飫肥地区の溶結凝灰岩はシラスが固まったもので,飫肥石と呼ばれる。岩盤の高さは15mほどあり,そこに立石,三連の石橋などが配され,主要な景を成す。特に,立地を活かして岩盤に架けられた石橋は,独特の景観を形成している。
飫肥藩主の菩提寺に地形を活かして造られた旧報恩寺庭園は,その独自の意匠をよく伝え,近世の南九州地方の造園文化の発展に寄与した意義深い事例である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
旧報恩寺庭園
写真一覧
旧報恩寺庭園
解説文
旧報恩寺(きゅうほうおんじ)庭園は日南市内を流れる酒谷川(さかたにがわ)の右岸,飫肥(おび)城下町の外側に位置する。報恩寺は飫肥藩主伊東氏の菩提寺で,天正16年(1588)に飫肥に入った初代藩主伊東祐兵(すけたけ)によって創建された臨済宗の寺院であった。明治5年(1872)に廃絶したが,その後飫肥藩士族によって板敷(いたじき)村に祀られていた伊東氏の氏神八幡社が遷され五百禩(いおし)神社となった。 庭園は,東西に延びる現社殿の軸線上の南側に位置し,急傾斜の露出した溶結凝灰岩の岩盤及びその裾に広がる細長い園池を中心とする。飫肥地区の溶結凝灰岩はシラスが固まったもので,飫肥石と呼ばれる。岩盤の高さは15mほどあり,そこに立石,三連の石橋などが配され,主要な景を成す。特に,立地を活かして岩盤に架けられた石橋は,独特の景観を形成している。 飫肥藩主の菩提寺に地形を活かして造られた旧報恩寺庭園は,その独自の意匠をよく伝え,近世の南九州地方の造園文化の発展に寄与した意義深い事例である。
詳細解説▶
詳細解説
旧報恩寺庭園は日南市内を大きく蛇行して流れる酒谷川(さかたにがわ)の右岸、飫肥(おび)城下町の外側に位置する。報恩寺は飫肥藩主伊東(すけたけ)氏の菩提寺で、天正16年(1588)に飫肥に入った初代藩主伊東祐兵によって創建された臨済宗の寺院であった。明治5年(1872)に廃絶したが、その後飫肥藩士族によって板敷(いたじき)村に祀られていた伊東氏の氏神八幡社が遷され五百禩(いおし)神社となった。 現在の神社の泮地、本殿、神楽殿、拝殿などの配置は軸線が一直線となっており、これには禅宗寺院の伽藍配置との類似性が認められることから、報恩寺の伽藍配置を踏襲していると推察される。 旧報恩寺庭園は、東西に延びる建物の軸線上の南側に位置し、急傾斜の露出した溶結凝灰岩の岩盤及びその裾に広がる細長い園池を中心とする。飫肥地区の溶結凝灰岩はシラスが固まったもので、飫肥石と呼ばれる。岩盤の高さは15mほどあり、そこに立石、三連の石橋などが配され、主要な景を成す。特に、立地を活かして岩盤に架けられた石橋は、独特の景観を形成している。 園池には2つの中島がある。護岸は草止め、石組み、石積みなどの工法が用いられているが、一部は後世に改修されている可能性がある。 旧報恩寺庭園の造営に関する記録は確認されておらず、明確な作庭時期はわからないが、地割から考えると廃寺となる以前の江戸期と推察される。 以上のように、旧報恩寺庭園は、飫肥藩主の菩提寺に地形を活かして造られた庭園で、その独自の意匠をよく伝え、近世の南九州地方の造園文化の発展に寄与した意義深い事例である。