国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
登録記念物
主情報
名称
:
平田氏庭園
ふりがな
:
ひらたしていえん
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種別1
:
登録記念物(名勝地関係)
種別2
:
時代
:
明治
年代
:
西暦
:
面積
:
1400.87 m
2
その他参考となるべき事項
:
登録番号
:
登録年月日
:
2018.02.13(平成30.02.13)
追加年月日
:
登録基準
:
所在都道府県
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福岡県
所在地(市区町村)
:
福岡県小郡市
保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
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解説文:
詳細解説
平田氏庭園は筑後川支流の宝満川の右岸,小郡市の中心部に位置する。平田氏は江戸時代から小郡に居住し,明治以降,木蝋業や金融業で財を成した。
庭園は,昭和初期には現在の形に整備されていたと考えられ,作庭は佐賀県鳥栖市の庭師松尾仙六(せんろく)(1889-1961)の手による。
南北に細長い庭園の東西南北には,主屋,客殿,新座敷,座敷などの建物が建つ。座敷の縁先付近からは,緩やかに流れが伸び,園池に接続する。流れが園池へと注ぐ部分の上には太鼓橋が架かり,その向こうには園池と巨大な滝石組が見える。滝石組は幅が約8m,高さが約4mあり,複数の巨岩から構成されている。用いられている巨岩は,運搬のために細かく分割され,当地で元のようにつなぎ合わされたものである。ほかにも随所に大ぶりの景石を配し,南北方向と東西方向に飛石が打たれている。植栽はマキを中心に他にマツ類,モミジ類などを配する。
平田氏庭園は建物を含む空間構成がよく保存されており,九州地方の造園文化の発展に寄与した意義深い事例と言える。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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解説文
平田氏庭園は筑後川支流の宝満川の右岸,小郡市の中心部に位置する。平田氏は江戸時代から小郡に居住し,明治以降,木蝋業や金融業で財を成した。 庭園は,昭和初期には現在の形に整備されていたと考えられ,作庭は佐賀県鳥栖市の庭師松尾仙六(せんろく)(1889-1961)の手による。 南北に細長い庭園の東西南北には,主屋,客殿,新座敷,座敷などの建物が建つ。座敷の縁先付近からは,緩やかに流れが伸び,園池に接続する。流れが園池へと注ぐ部分の上には太鼓橋が架かり,その向こうには園池と巨大な滝石組が見える。滝石組は幅が約8m,高さが約4mあり,複数の巨岩から構成されている。用いられている巨岩は,運搬のために細かく分割され,当地で元のようにつなぎ合わされたものである。ほかにも随所に大ぶりの景石を配し,南北方向と東西方向に飛石が打たれている。植栽はマキを中心に他にマツ類,モミジ類などを配する。 平田氏庭園は建物を含む空間構成がよく保存されており,九州地方の造園文化の発展に寄与した意義深い事例と言える。
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詳細解説
平田氏庭園は筑後川支流の宝満川の右岸、小郡市の中心部に位置する。平田氏は江戸時代から小郡に居住し、明治以降木蝋業や金融業で財を成した。 平田氏庭園が造られた経緯や時期などについては、詳細は不明だが、古写真などから、昭和初期には現在の形に整備されていたことがわかる。近年の調査によって、作庭は佐賀県鳥栖市の庭師松尾仙六(1889-1961)の手によることがわかった。また、小郡や鳥栖で松尾が平田氏庭園以外にも十以上の庭園を造ったことも判明し、そのうちのいくつかの庭園は現在もほぼそのままの形で残っている。 平田氏庭園は南北に細長く、東西南北に建物が建つ。敷地の北側にある座敷は明治12年(1879)建築で、座敷から見て左手に主屋(明治12年建築)、右手に客殿(昭和3年〈1928〉建築)、正面奥に新座敷(昭和3年建築)という配置になっている。 座敷の縁先付近からは、右奥へ向かって緩やかに流れが伸び、客殿のすぐ脇を通って園池に接続する。流れが園池へと注ぐ部分には低い段差が設けられ、上に太鼓橋が架かる。この太鼓橋は主屋と客殿を結び、景観の重要な要素となっている。太鼓橋の向こうには横方向に広がる園池と巨大な滝石組が見える。滝石組は幅が約8m、高さが約4mあり、複数の巨岩から構成されている。用いられている巨岩は、運搬のために細かく分割され、当地で元のようにつなぎ合わされたものである。滝への給水はポンプを使用していたと考えられ、鉱滓レンガ造の躯体が今も残っているが、現在は使用されておらず、園池の水も涸れている。 滝石組のほかにも、園内の随所に大ぶりの景石を配し、座敷から奥へ、また左手の主屋から横方向へ飛石が打たれている。植栽はマキを中心としつつ、他にマツ類、モミジ類などを植えている。 建物の改修などはあったものの、その配置は昭和初期から変わっておらず、庭園にも大きな変化は見られない。建物を含む空間構成がよく保存されており、九州地方の造園文化の発展に寄与した意義深い事例である。