国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
重要文化的景観
主情報
名称
:
金沢の文化的景観 城下町の伝統と文化
ふりがな
:
かなざわのぶんかてきけいかん じょうかまちのでんとうとぶんか
金沢の文化的景観(大野庄用水)
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種別1
:
重要文化的景観
種別2
:
面積
:
292.0 ha
その他参考となるべき事項
:
選定番号
:
選定年月日
:
2010.02.22(平成22.02.22)
追加年月日
:
選定基準
:
(五)ため池・水路・港などの水の利用に関する景観地,(七)道・広場などの流通・往来に関する景観地,(八)垣根・屋敷林などの居住に関する景観地
所在都道府県
:
石川県
所在地(市区町村)
:
石川県金沢市
金沢の文化的景観(大野庄用水)
解説文:
詳細解説
わが国における城下町発展の各段階を投影した都市構造を現在まで継承し、街路網や用水路等の諸要素が現在の都市景観に反映されるとともに、城下町が醸成した伝統と文化に基づく伝統工芸等の店舗が独特の界隈を生み出す貴重な文化的景観である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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金沢の文化的景観(大野庄用水)
金沢の文化的景観(新町)
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金沢の文化的景観(大野庄用水)
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金沢の文化的景観(新町)
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解説文
わが国における城下町発展の各段階を投影した都市構造を現在まで継承し、街路網や用水路等の諸要素が現在の都市景観に反映されるとともに、城下町が醸成した伝統と文化に基づく伝統工芸等の店舗が独特の界隈を生み出す貴重な文化的景観である。
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詳細解説
金沢市は石川県のほぼ中央やや南に位置し、その中心地区は南東の山間部から伸びた台地の麓にある。これらの山地からは浅野川や犀川等が流下し、河川が生み出す沖積平野が河口部に広がっている。河川中流域には河岸段丘が形成され、金沢市の核となる市街地は、浅野川と犀川に挟まれたこの段丘上にある。 金沢市街地の起源は、「金沢御堂」の門前に形成された旅屋や商工業者による寺内町とされる。天正8年(1580)に「金沢御堂」が陥落し、その跡地に築かれた金沢城に前田利家が入城することにより、近世城下町の建設が始まった。初期の城下町建設は内惣構の開削によって完成し、その後、天守閣が焼失するまでの間、これを見通す中町を基軸とした縦町型の町人地が成立していたと考えられている。しかし、外惣構が建設された後には大火の影響もあり、大規模な移転の結果、内惣構の内部を通る北国街道沿いに横町型の町割を持つ町人地(尾張町等)が形成された。この都市改造と、武家屋敷の移転及び街道沿いにおける都市拡大を経た後、寛文・延宝期(1661~81)には、概ね現市街地の構造を規定する大型城下町が完成したと考えられる。この時期の城下町の景観は、「寛文7年金沢図」「延宝金沢図」によって想定することができるが、絵図に示される街路網は細街路に至るまで現代のそれらにほぼ一致し、当時の形態を留める二つの惣構や辰巳用水等の近世用水群が現在の都市の景観に継承されている。また、江戸後期になると卯辰山等の緑地が憩いの場として城下の人々に開放され、これらは貴重な都市緑地として現在も金沢市民に親しまれている。 藩政期の金沢においては、三代利常、五代綱紀によって大規模な文化政策が推進された。特に工芸分野に関しては、漆工、金工、陶芸などの職人を江戸や京都から招聘し、御細工所を設けて藩内の上級武士の屋敷内で使う家具や調度品をはじめ、装身具、武器・武具、儀礼や寺社の道具、茶道具などの大半を藩内で生産できる水準にまで高めた。加賀藩御細工所の細工人は武士待遇で、扶持を受けながらも年に一つの作品を制作すれば許される極めて恵まれた環境にあった。しかし、技術や作品が他の細工人よりも劣ればすぐに罷免され、代わって町職人の中から新たな人材が抜擢・採用された。また、御細工所では技術刷新やデザイン開発は行われず、当時主流であった桃山風、寛永期の工芸手法を藩が指定した。明治維新後、これらの伝統工芸はかつての武士階層によって商業化され、現在の金沢の生業に大きな影響を与えている。 綱紀は、「百工比照」と呼ばれる工芸コレクションを行い、江戸初期から寛文期、元禄の終わり頃に至る金工、和紙・襖紙、織物、打ち糸、色漆、蒔絵、木材、竹、革などの200分野2844品目に及ぶ工芸品について、完成品、原材料、図案や絵図、文書記録等を集めた。また綱紀は、工芸作家に留まらず、林羅山や室鳩巣などを呼び寄せることによって中国やオランダ諸外国の書物や書画・古書籍などを収集し、同時に茶人や画家等を藩内に招き入れた。中でも「夕顔棚納涼図屏風」(国宝)で著名な久隅守景は加賀藩滞在中にこれを描き、農村風俗画として名高い「四季耕作図屏風」を制作している。これらの作品は、当時の先進的な芸術家に対する加賀藩の理解力とともに、綱紀のパトロンとしての力量を示している。 明治維新以後、中心部の都市改造が実施されたが、城周辺にある武家屋敷跡はその地割に基づき官公庁や銀行、商社等の集積地として発展し、行政・経済の中心的機能を継承した。また、金沢城跡は第九師団司令部並びに歩兵第七連隊の衛戌地、本多家上屋敷や篠原出羽守屋敷等の武家屋敷群はそれぞれ練兵場や師団長官舎として、城下町の地割を残したまま活用された。こうした大規模な社会・経済的変化にもかかわらず、庶民は藩政期と変わらぬ生活を営んでいたと考えられる。泉鏡花の「照葉狂言」には、「見好げなる仕舞屋」の並ぶ小路の景観とともに、雨上がりの砂利の中に混じる細螺の様子が描かれている。細螺とは小粒の貝のことで、その殻に様々な色を塗り子供達がおはじきに使った。加賀藩の伝統工芸にも通ずる、金沢特有の美意識を想起させる。 明治31年(1898)における金沢駅の開通、大正8年(1919)の金沢電気軌道株式会社による市電の敷設等によって金沢の観光化が推進されるようになると、観光用の案内誌やビラ、名所旧跡を描いた絵はがきなどが多数出版されるようになった。これらの中には、市役所や金沢駅、兼六園などの代表的な施設とともに周辺部の温泉地、寺社、遊園地等が描かれ、金沢の名所としての魅力が大きく宣伝された。また、藩政期から大店の建ち並ぶ尾張町・片町や、芝居・相撲興行等が行われた浅野川・犀川沿いの河原には、維新後に繁華街が形成され、昭和初期に至るまで東山東・主計町の花街とともに寄席や劇場が建ち並んだ。幸いにも金沢は、第二次世界大戦による戦災や高度成長期の影響を比較的受けなかったため、我が国の歴史都市が抜本的な都市改変に直面する中、城下町としての都市構造を留めつつ、近代の面影を残す代表的な町の一つとなった。 以上のように、「金沢の文化的景観 城下町の伝統と文化」は、わが国における城下町発展の各段階を投影した都市構造を現在まで継承するとともに、城下町が醸成した伝統と文化に基づく生業を現在も継承する貴重な文化的景観である。金沢市街地は、現在も日本における城下町の代表として知られ、また歴史的な環境も比較的良好に維持されている。しかし、近年では、尾張町界隈にマンションが建つなど、文化都市としての個性が失われつつある。このため、今回、文化的景観保存調査によって価値が明らかとなり、文化的景観保存計画を通じて保護の手法について検討が行われた旧内惣構内及び近世用水群等を重要文化的景観として選定し、保存・活用を図ろうとするものである。