国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要文化的景観
主情報
名称
:
佐渡西三川の砂金山由来の農山村景観
ふりがな
:
さどにしみかわのさきんゆらいののうさんそんけいかん
砂金採掘が行われた虎丸山
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種別1
:
重要文化的景観
種別2
:
面積
:
その他参考となるべき事項
:
選定番号
:
選定年月日
:
2011.09.21(平成23.09.21)
追加年月日
:
2023.09.28(令和5.09.28)
選定基準
:
所在都道府県
:
新潟県
所在地(市区町村)
:
新潟県佐渡市
砂金採掘が行われた虎丸山
解説文:
詳細解説
佐渡島の南西部、真野湾に注ぐ西三川川流域一帯には金銀鉱床が展開しており、古くから砂金採掘が行われた結果、現在は斜面の掘削による平坦面・被植に乏しい裸地や地崩れ地形・独立丘陵など特異な地形が形成されている。砂金採掘の記録は平安時代に遡るが、産金量が増大した中世末期には砂金採掘の中心地であった西三川川中流域の山間地に集落が形成され、近世も徳川幕府の財政を支えた佐渡金銀山の一つとして西三川砂金山は栄えた。江戸時代中期以降は次第に産金量が減少し、明治5年(1872)に西三川砂金山は閉山となった。閉山後は砂金採掘跡や堤跡の田畑への転換、砂金流し用水路の農業用水路への転用といった農地開発が行われ、明治末期には現在の農村へと産業構造の転換がほぼ完成するに至った。こうした田畑や水路は現在も機能しており、近世の鉱山跡地や鉱山技術を応用した農地開発にかかる土地利用の変遷を確認することができる。集落内では長年の砂金採掘によって生じたガラ石を用いて、家屋の敷地境界線や道路法面に石垣が築かれており、屋敷の配置構成も近世の砂金採掘時代の形態を継承していることが絵図によって示されている。
このように、佐渡西三川の農山村景観は、古代から近代まで行われた砂金採掘によって形成された独特の地形・技術を、閉山後も巧みに土地利用に活かし農山村へと産業構造の転換を成功させた地域の歴史的変遷を示す、価値の高い文化的景観である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
砂金採掘が行われた虎丸山
笹川集落
山中に点在する水路跡・ガラ石
ガラ石積みの基礎を有した居住地
写真一覧
砂金採掘が行われた虎丸山
写真一覧
笹川集落
写真一覧
山中に点在する水路跡・ガラ石
写真一覧
ガラ石積みの基礎を有した居住地
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解説文
佐渡島の南西部、真野湾に注ぐ西三川川流域一帯には金銀鉱床が展開しており、古くから砂金採掘が行われた結果、現在は斜面の掘削による平坦面・被植に乏しい裸地や地崩れ地形・独立丘陵など特異な地形が形成されている。砂金採掘の記録は平安時代に遡るが、産金量が増大した中世末期には砂金採掘の中心地であった西三川川中流域の山間地に集落が形成され、近世も徳川幕府の財政を支えた佐渡金銀山の一つとして西三川砂金山は栄えた。江戸時代中期以降は次第に産金量が減少し、明治5年(1872)に西三川砂金山は閉山となった。閉山後は砂金採掘跡や堤跡の田畑への転換、砂金流し用水路の農業用水路への転用といった農地開発が行われ、明治末期には現在の農村へと産業構造の転換がほぼ完成するに至った。こうした田畑や水路は現在も機能しており、近世の鉱山跡地や鉱山技術を応用した農地開発にかかる土地利用の変遷を確認することができる。集落内では長年の砂金採掘によって生じたガラ石を用いて、家屋の敷地境界線や道路法面に石垣が築かれており、屋敷の配置構成も近世の砂金採掘時代の形態を継承していることが絵図によって示されている。 このように、佐渡西三川の農山村景観は、古代から近代まで行われた砂金採掘によって形成された独特の地形・技術を、閉山後も巧みに土地利用に活かし農山村へと産業構造の転換を成功させた地域の歴史的変遷を示す、価値の高い文化的景観である。
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詳細解説
佐渡島の南西部、真野湾に注ぐ西三川川流域一帯には、約2000万年前の火山活動における熱水作用により形成された火山岩中の金銀鉱脈が風化・浸食され、河川の運搬作用によって堆積した金銀鉱床が展開している。そのため古くから砂金採掘が行われ、斜面の掘削による平坦面・被植に乏しい裸地や地崩れ地形・独立丘陵など特異な地形が形成されてきた。 砂金採掘の記録は平安時代に遡るが、産金量が増大したのは中世末期の頃とされる。当地では、砂金を含有する山の斜面を人力で掘り崩し、長距離水路によって引いた水で余分な土砂を洗い流した後、残った砂から砂金を取り上げる「大流し」と呼ばれる技法が採用され、その中心地であった西三川川中流域の山間地には、砂金採取を主目的とした集落が形成された。近世も徳川幕府の財政を支えた佐渡金銀山の一つとして西三川砂金山は栄えたが、江戸時代中期以降は次第に産金量が減少し、明治5年(1872)に閉山となった。 砂金採掘で生計を立ててきた集落には、もともと土地も田畑も少なく、閉山直後は他村から購入した立木を炭にし、町場へ売りに行くことで財を蓄えた。人々は蓄えた財で少しずつ周辺集落の余剰地を購入し、開墾を進めた。一方で砂金採掘跡や「大流し」の堤跡の田畑への転換、「大流し」用から農業用への水路の転用といった農地開発が行われ、明治末期には現在の農村へと産業構造の転換がほぼ完成するに至った。こうした田畑や水路は現在も機能しており、近世の鉱山跡地や鉱山技術を応用した農地開発にかかる土地利用の変遷を確認することができる。また、集落内では長年の砂金採掘によって生じたガラ石を用いて、家屋の敷地境界線や道路法面に石垣が築かれており、屋敷の配置構成も近世の砂金採掘時代の形態を継承していることが絵図によって示されている。 このように、佐渡西三川の農山村景観は、古代から近代まで行われた砂金採掘によって形成された独特の地形・技術を、閉山後も巧みに土地利用に活かし農山村へと産業構造の転換を成功させた地域の歴史的変遷を示す、価値の高い文化的景観である。しかしながら、現在は過疎化・高齢化が進み、耕作放棄地や手入れの行き届かない雑木林の増大といった問題が生じつつある。そのため、当該地域における生活・生業を維持し当該文化的景観を保存・活用するため、佐渡市は文化的景観保存調査を実施し文化的景観保存計画を策定した。調査では景観単位として、砂金採掘跡等に形成された山林及び農地、「大流し」用から農業用に転用された水利の在り方を示す河川及び水路、鉱山集落として開かれた居住地が析出された。また、保存計画において重要な構成要素として農地・水路・集落など17件の不動産が特定されている。これらに基づき、今次選定申出が行われた当該文化的景観について重要文化的景観に選定し、その保存・活用を図るものである。