国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要文化的景観
主情報
名称
:
酒谷の坂元棚田及び農山村景観
ふりがな
:
さかたにのさかもとたなだおよびのうさんそんけいかん
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種別1
:
重要文化的景観
種別2
:
面積
:
460.3 ha
その他参考となるべき事項
:
選定番号
:
選定年月日
:
2013.10.17(平成25.10.17)
追加年月日
:
選定基準
:
所在都道府県
:
宮崎県
所在地(市区町村)
:
宮崎県日南市
解説文:
詳細解説
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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詳細解説
宮崎県日南市の西部では、日南層群と呼ばれる新生代第三紀の砂岩・泥岩地層を基盤とする鰐(わに)塚(づか)山地が、標高1000メートルに満たない高地を形成している。そのほぼ中央に位置する酒谷地区では、飫(お)肥(び)杉(すぎ)林が卓越する中で、河川沿い又は地すべりで形成された緩斜面地等に、小規模な集落が点在している。 中世までの酒谷における居住の在り方は未詳であるが、江戸時代、飫肥藩領酒谷村は、鹿児島藩との国境に位置し、郷(ごう)士(し)と呼ばれる足軽組軍団で固められた上酒谷村と、農村生活が営まれる下酒谷村によって形成されていた。郷士足軽の多くは五石から十石前後の給地を所有し、狭小な畑地とともに、山中に散在して居住していた。この頃には、杉を中心とする植林が飫肥藩領内で広く行われており、飫肥藩伝統の植栽・育樹方法である「分(部)一山」制度の下に、成木のうち上木は藩に献納し、中・下木の二分の一又は三分の一及び間伐材は植栽者のものとする森林管理が行われた。また、木材をはじめとする林産品の運搬のために牛馬が飼育されたため、秣(まぐさ)場が確保されたほか、建築資材及び炭俵の材料として萱(かや)場が展開した。 明治初年に約二千人であった酒谷村の人口が大正初年に約三千人、昭和初年に四千人を超えるに当たって、水田耕作に不適な斜面地である当地で次々と耕地整理組合が組織され、耕地整理事業が進められた。このうち坂元集落では、標高約255メートル~315メートル、傾斜1/7の秣場・萱場を転用し、昭和3年(1928)から昭和8年にかけて、棚田が造成された。 坂元棚田東側の「古田(ふつた)」と呼ばれる近世来の水田が、面積1アール未満から約5アールの不整形を成すのに対し、新たに造成された棚田は、面積約3アール又は5アールの長方形となっている。ほぼすべての区画で乱積みの石積法面を持ち、当時重要な動力であった馬の進入路が確保されている。坂元棚田の北東に位置する中尾谷川・溝口谷川の2つの水系から、約1.6キロメートルの水路を引いて導水した用水は、棚田中央に設えられた用排水路及び棚田東側の谷川を通じて各区画を潤すほか、田越しの灌漑も行われている。当地は、年間約3000ミリメートルを超える豊富な降水量に恵まれており、また、平野部と比較して昼夜の寒暖差が大きく、水温も比較的冷涼であるなど、良質な稲の生育に適した栽培環境となっている。 坂元棚田の周囲では、飫肥杉林が卓越しており、水源かん養林として機能している。藩政期の分(部)一山は「部分林」として近代以降も引き継がれ、営林署と集落との契約に基づき造林・育林が行われた。特に第二次世界大戦後は、坂元集落北東部の国有林が払い下げられ、畑地又は温州みかんの果樹園として利用されたが、昭和46年(1971)のグレープフルーツ輸入自由化等により果樹経営が不振となり、スギへの改植が進んだ。さらに、昭和40年代に農耕馬による馬耕から機械耕へと転換したことにより、秣場を林地へ転用したほか、同時期の減反政策に伴って、集落周辺の迫(さこ)田(た)にも飫肥杉が植林されるなど、拡大造林が進展した。比重が小さく、樹脂も多く含んで弾力に富んだ飫肥杉は、船材に最適であり、当地で栽培された飫肥杉は、近傍の港町である油津をはじめ、西日本各地へ広く移出された。現在も坂元集落の森林率は78%であり、そのうち約87%がスギ林となっている。 このように、酒谷では、昭和初期以前の個別分散型の農業から、耕地整理以降の坂元棚田における集約的な稲作へ、そして戦後の飫肥杉造林による林業へと生業の中心を変遷させてきた。近代農業土木技術の水準を示す坂元棚田及び分(部)一山制度に起源を持つ当地独特の営林方法によって形成された独特の土地利用の在り方は、この地域における生活・生業を理解する上で欠くことができないものであり、重要文化的景観に選定し、保存・活用を図るものである。