国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要文化的景観
主情報
名称
:
長良川中流域における岐阜の文化的景観
ふりがな
:
ながらがわちゅうりゅういきにおけるぎふのぶんかてきけいかん
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種別1
:
重要文化的景観
種別2
:
面積
:
331.9 ha
その他参考となるべき事項
:
選定番号
:
選定年月日
:
2014.03.18(平成26.03.18)
追加年月日
:
選定基準
:
所在都道府県
:
岐阜県
所在地(市区町村)
:
岐阜県岐阜市
解説文:
詳細解説
美濃山地の南端,濃尾平野の北端の長良川中流域では古くから鵜飼が行われ,長良川堤外地には鵜飼屋地区(うかいやちく)の鵜匠宅を含む集落及び水運によって発展した問屋業による川原町地区の伝統的町並みが文化的景観を形成している。
また,長良川と金華山に挟まれた扇状地では,中世末から近世に織田信長等によって総構(そうがまえ)を持つ岐阜城及び城下町が形成され,武家地・寺社地・町人地が形成された。落城後も長良川を介した物資集散地としての地の利を生かし,材木・和紙・糸等を扱う問屋業,提灯(ちょうちん)・団扇(うちわ)・傘等の手工業を中心とする商業に依拠した岐阜町が発展した。城下町に由来する総構の土塁,水路,街路,町割り等の基本的な構造は現在の土地利用にも踏襲されており,城下町由来の構造の中に残る町家等とともに文化的景観を呈している。
このように,長良川中流域における岐阜の文化的景観は,長良川を中心とした鵜飼漁や問屋業等によって形成された文化的景観及び岐阜城下町の構造を基盤に発展形成された岐阜町の文化的景観が重層したものであり,我が国における生活又は生業の理解のため,欠くことのできないものである。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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解説文
美濃山地の南端,濃尾平野の北端の長良川中流域では古くから鵜飼が行われ,長良川堤外地には鵜飼屋地区(うかいやちく)の鵜匠宅を含む集落及び水運によって発展した問屋業による川原町地区の伝統的町並みが文化的景観を形成している。 また,長良川と金華山に挟まれた扇状地では,中世末から近世に織田信長等によって総構(そうがまえ)を持つ岐阜城及び城下町が形成され,武家地・寺社地・町人地が形成された。落城後も長良川を介した物資集散地としての地の利を生かし,材木・和紙・糸等を扱う問屋業,提灯(ちょうちん)・団扇(うちわ)・傘等の手工業を中心とする商業に依拠した岐阜町が発展した。城下町に由来する総構の土塁,水路,街路,町割り等の基本的な構造は現在の土地利用にも踏襲されており,城下町由来の構造の中に残る町家等とともに文化的景観を呈している。 このように,長良川中流域における岐阜の文化的景観は,長良川を中心とした鵜飼漁や問屋業等によって形成された文化的景観及び岐阜城下町の構造を基盤に発展形成された岐阜町の文化的景観が重層したものであり,我が国における生活又は生業の理解のため,欠くことのできないものである。
詳細解説▶
詳細解説
長良川は、岐阜県北西部の白山山系周辺の山々を水源とし、県下の多くの支流を束ねながら伊勢湾へ向けて南流する。水運は古代より盛んであり、地形的な結節点や支流の合流点等には川(かわ)湊(みなと)が開かれた。 美濃山地の南端、濃尾(のうび)平野の北端の長良川中流域では、その地形的特性、及び水量水質等の好条件により、豊かな魚相が育まれた。流域の人々は鮎(あゆ)や鱒(ます)等の漁獲を求め、古くから夜川網(よかわあみ)及び瀬(せ)張網(はりあみ)等の多種多様な漁法を展開し現代まで継承してきた。 鵜飼屋(うかいや)地区は、長良橋北詰東に位置し鵜飼を生業とする人々が居住している集落である。鵜飼は中国から伝わったとされる漁法で古くから行われ、美濃国においては大宝2年(702)の戸籍に鵜飼に関する記録が見られる。近世においては、織田信長及び徳川家康等の保護を受けて発展した。江戸時代後期からは観光の対象ともなり、明治18年(1855)に鵜飼屋組合による遊覧船の経営が開始され、その後長良川遊船株式会社による本格的な観光鵜飼へと発展した。石垣によってかさ上げされた敷地にある鵜匠宅は主屋(おもや)、鳥屋(とりや)、水場(みずば)、松(まつ)小屋(ごや)からなり、集落全体が堤防によって囲まれている。明治23年(1890)に長良川の鵜飼が宮内省主猟局(現在の宮内庁)の所管となり、現在に至っている。鵜匠の正式な呼称は、「宮内庁(くないちょう)式部(しきぶ)職(しょく)鵜(う)匠(しょう)」といい、現在も年に数回、皇室に鮎を献上している。 川原町地区は、古くから中河原湊として栄えた場所で、現在は長良橋南詰から西へ続く「湊町(みなとまち)・玉井町(たまいまち)・元浜(もとはま)町(まち)」からなる地区である。江戸時代には尾張藩により長良川役所が設置され、美濃山地の木材及び美濃(みの)和紙(わし)等の陸揚げを行う問屋からなる港町として栄えた。第2次世界大戦の岐阜空襲を逃れたため、古い家屋は江戸時代にまでさかのぼるものもあり、正面に木格子を多用した意匠の町家が連続する町並みが現在もよく残っている。 また、長良川中流域に形成された扇状地は、河川の勾配が緩いため流送(りゅうそう)土砂(どしゃ)が少なく、半径約4kmと規模が小さく、その中でも長良川と金華山(きんかざん)に挟まれた地域では、中世末から近世に斎藤(さいとう)道三(どうさん)及び織田信長等によって総構(そうがまえ)を持つ岐阜(ぎふ)城(じょう)及び城下町が築かれ、武家地、寺社地、町人地が形成された。落城後も美濃山地及び長良川に近接した地の利を活かした商業都市「岐阜町」として、川原町地区とともに材木・和紙・糸等を扱う問屋業、美濃産の竹及び和紙を基調とした提灯・団扇・傘等の工芸品を制作する手工業が発達した。このような生業を営む家屋は町家形式でミセと蔵の間で物資の運搬が頻繁に行われたため、他の地域より土間の幅が広い。近世において金華山は尾張藩により一般の入山が規制された一方、政治の拠点は加納城に移った。近代になると、金華山山頂に岐阜城復興天守が、山麓城主居館跡地一帯には岐阜公園が造られ、市民に親しまれる空間として機能する。岐阜町の商業の中心地としての機能は昭和初期まで継続したが、鉄道の敷設を契機に材木商等は市の南部に移転した。現在では、多くの人が住む住宅地へと変化し、かつての商業地としての機能は縮小しつつあるが、城下町に由来する総構の街路、町割り等の基本的な構造は今も土地利用に踏襲されているほか、町家形式の家屋も多数残っており、住民によって維持されている。 このように、長良川中流域における岐阜の文化的景観は、長良川を中心とした鵜飼業及び問屋業等の生活・生業によって形成された文化的景観、岐阜城下町の構造を引き継ぎ岐阜町の生活・生業に起源を持つ町家を今なお引き継ぐ重層的な都市の文化的景観からなり、我が国における生活・生業の理解のため欠くことのできないものであることから、重要文化的景観に選定し、保存・活用を図るものである。