国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要文化的景観
主情報
名称
:
生野鉱山及び鉱山町の文化的景観
ふりがな
:
いくのこうざんおよびこうざんまちのぶんかてきけいかん
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種別1
:
重要文化的景観
種別2
:
面積
:
963.4 ha
その他参考となるべき事項
:
選定番号
:
選定年月日
:
2014.03.18(平成26.03.18)
追加年月日
:
選定基準
:
所在都道府県
:
兵庫県
所在地(市区町村)
:
兵庫県朝来市
解説文:
詳細解説
但馬と播磨との境に位置する生野では,古くから鉱山開発が進められた。開坑は大同2年(807)と伝わるが,史料での初見は『銀山旧記(ぎんざんきゅうき)』であり,天文11年(1542)に但馬守護職の山名祐豊(やまなすけとよ)が石見銀山から採掘・製錬技法を導入したとされている。江戸時代には口銀谷(くちがなや)・奥銀谷(おくがなや)等に灰吹(はいふき)小屋が立ち並び,生野の町は隆盛した。明治になると近代技術が導入され,昭和48年(1973)の閉山まで,我が国有数の鉱山として機能した。閉山後もスズの精錬及びレアメタルの回収が現在まで行われており,特にスズの精錬量は我が国有数の規模を誇る。
生野市街地には,鉱業都市を示す要素が数多く分布している。かつて物資の輸送路として活躍したトロッコ道は,現在も市道として交通の軸線を形成している。また,製錬滓(せいれんさい)をブロック状に固めたカラミ石は,民家の土台や塀,水路など至る所で用いられている。かつて鉱山に関わる信仰として行われた山神祭は,現在はへいくろう祭等にその精神が引き継がれており,鉱山町における生活と密接に関わる習俗・伝統が,現在も継承されている。
このように,生野鉱山及び鉱山町の文化的景観は,鉱山開発及びそれに伴う都市発展によって形成された文化的景観であり,現役の鉱業都市として生産活動及び祭等の習俗を継続しつつ,トロッコ道跡やカラミ石の石積みなど鉱業都市に独特の土地利用の在り方を示している。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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解説文
但馬と播磨との境に位置する生野では,古くから鉱山開発が進められた。開坑は大同2年(807)と伝わるが,史料での初見は『銀山旧記(ぎんざんきゅうき)』であり,天文11年(1542)に但馬守護職の山名祐豊(やまなすけとよ)が石見銀山から採掘・製錬技法を導入したとされている。江戸時代には口銀谷(くちがなや)・奥銀谷(おくがなや)等に灰吹(はいふき)小屋が立ち並び,生野の町は隆盛した。明治になると近代技術が導入され,昭和48年(1973)の閉山まで,我が国有数の鉱山として機能した。閉山後もスズの精錬及びレアメタルの回収が現在まで行われており,特にスズの精錬量は我が国有数の規模を誇る。 生野市街地には,鉱業都市を示す要素が数多く分布している。かつて物資の輸送路として活躍したトロッコ道は,現在も市道として交通の軸線を形成している。また,製錬滓(せいれんさい)をブロック状に固めたカラミ石は,民家の土台や塀,水路など至る所で用いられている。かつて鉱山に関わる信仰として行われた山神祭は,現在はへいくろう祭等にその精神が引き継がれており,鉱山町における生活と密接に関わる習俗・伝統が,現在も継承されている。 このように,生野鉱山及び鉱山町の文化的景観は,鉱山開発及びそれに伴う都市発展によって形成された文化的景観であり,現役の鉱業都市として生産活動及び祭等の習俗を継続しつつ,トロッコ道跡やカラミ石の石積みなど鉱業都市に独特の土地利用の在り方を示している。
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詳細解説
生野は、兵庫県のほぼ中央部、播磨(はりま)地方と但馬(たじま)地方との境界に位置する。中国山地から丹波(たんば)高地にかかる山間地で、開析が進んだ標高約600mの山地及び丘陵地に囲まれた谷地において、人々は生活・生業を営んできた。当地は約1億年前の火山活動で噴出した地層から成り、流(りゅう)紋岩(もんがん)・凝灰岩・安山岩・玄武岩などが確認される。また、地下深くに染み込んだ雨水・海水がマグマの熱で加熱され、石英を中心とした金・銀を含む熱水となって安山岩などの地層群を貫き、断層や岩石の割れ目に沈殿することによって、金・銀・鉛・銅・スズなど多種の鉱物を含む鉱脈が形成された。周辺はブナ・ヤブツバキ等の二次林及びスギ・ヒノキの人工林が優占するが、潜在的にはアカマツ林であった。また、カドミウムなどの重金属に耐性があるヘビノネゴザやハクサンハタザオなどの鉱山指標植物が群生しており、かつては山師が鉱脈の目印とした。 生野では鉱脈が顕著に発達することから、古くから鉱山開発が行われた。その起源は大同2年(807)とする説もあるが、史料としての初見は、元禄3年(1690)に寺田(てらだ)豊(とよ)章(あき)が著したとされる『銀山(ぎんざん)旧記(きゅうき)』であり、天文11年(1542)に山名(やまな)祐(すけ)豊(とよ)が灰吹法(はいふきほう)など当時の先端技術を導入し、銀の採掘・製錬を行ったと記録される。江戸時代には口(くち)銀(がな)谷(や)・奥(おく)銀(がな)谷(や)等に灰吹小屋が立ち並び、生野全体の人口は2万人を超えたとされる。また、奥銀谷の市川(いちかわ)河床には、当時の選鉱施設である「淘(ゆ)り池(いけ)」が現在も残るなど、生野全体で生産が行われていたことがわかる。 明治元年(1868)、生野鉱山は政府が管理する我が国初の官営鉱山となり、鉱山の近代化が図られた。明治政府は、太(た)盛(せい)地区の集落を生野代官所跡等に移転させ、レンガ造の工場群を整備したほか、鉱山学校を開設して近代技術者の養成を進めた。また、動力用水路・堰堤・物資輸送用の馬車道・官舎などが建設され、近代の鉱山町が形成された。明治28年(1895)には、姫路飾磨(しかま)港と生野とを結ぶ播但(ばんたん)鉄道(現JR播但線)が開通し、駅前通りは繁華街として栄えた。明治29年に宮内省御料局から三菱合資会社に管理が移されると、社宅群及び病院・劇場等の福利厚生施設も建設された。大正時代になると市川沿いにトロッコ道が敷設され、昭和初期には鉱滓処理堆積場として久(く)宝(ほう)ダム・大仙(だいせん)ダム等が築造された。 昭和48年(1973)、坑道の老朽化や地下資源の品質低下により、生野鉱山は閉山した。しかしながら、生野では、鉱山で培われた製錬技術を生かして鉱業が継続された。現在は「都市鉱山」と呼ばれる使用済みの電子機器などから、金・銀などの貴金属及びタングステンなどのレアメタルを回収し、効率的なリサイクルを行っている。また、中国等から輸入したスズの地金を精錬し高純度のスズを生産しており、我が国屈指の生産量を誇る。このように、生野は、現在も鉱業生産が続く鉱業都市である。 生野市街地には、鉱業都市を示す要素が数多く分布している。例えば、鉱山労働者は比較的短命であったとされ、多くの寺社が建立された。現在も口銀谷北部の山すそ等には、寺町が形成されている。また、かつて物資の輸送路として活躍したトロッコ道は、現在も市道等として交通の軸線を形成している。近代に整えられた社宅群等の屋根は、鉄分を多く含む土で焼成されたため赤みがかった生野瓦で葺かれる。また、製錬滓をブロック状に固めたカラミ石は、民家の土台や塀など至る所で用いられている。かつて鉱山に関わる信仰として行われた山神祭は、現在はへいくろう祭等にその精神が引き継がれており、鉱山町における生活と密接に関わる習俗が継承されている。 このように、生野鉱山及び鉱山町の文化的景観は、鉱山開発及びそれに伴う都市発展によって形成された文化的景観であり、現役の鉱業都市として生産活動及び鉱業に関わる習俗を継続しつつ、トロッコ道跡やカラミ石の石積みなど鉱山町に独特の土地利用の在り方を示している。我が国有数の鉱山によって形成され、かつ現在も鉱業生産を継続する鉱業都市の景観地であることから、我が国における生活・生業の在り方を理解する上で欠くことのできないものであり、重要文化的景観に選定し保存・活用を図るものである。