国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要文化的景観
主情報
名称
:
北大東島の燐鉱山由来の文化的景観
ふりがな
:
きただいとうじまのりんこうやまゆらいのぶんかてきけいかん
解説表示▶
種別1
:
重要文化的景観
種別2
:
面積
:
162.4 ha
その他参考となるべき事項
:
選定番号
:
選定年月日
:
2018.10.15(平成30.10.15)
追加年月日
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選定基準
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所在都道府県
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沖縄県
所在地(市区町村)
:
解説文:
詳細解説
北大東島は沖縄本島東方約360kmに位置する隆起珊瑚礁を起源とする地形を持つ南洋の離島であり,明治期に入って開拓が始まった歴史を持つ。特に,化学肥料の原料となる燐を多く含むグアノ(鳥糞石)が広く堆積していたことから,大正時代から戦後直後にかけて燐鉱石採掘が盛んに行われた。現在も島の北西部に位置する西港周辺では,採掘場,トロッコ軌道,燐鉱石貯蔵庫,船揚げ場等の燐鉱石採掘に関連する一連の生産施設が国内唯一残り,当時の社宅及び福利厚生施設等の生活関連施設が住宅群や民宿として継続的に利用されている。これらの施設では,珊瑚が風化して生成されたドロマイトの白い切石が多用されており,独特の景観を呈している。現在の北大東島の主産業はサトウキビ生産であるが,技術発展とともに近海漁業も盛んになりつつあり,西港周辺ではサトウキビ畑・ため池が広がる一方,往時の施設を利用した魚市場及び水産加工施設が点在する。日本列島南方の特殊な風土によって形成された離島において,大正時代から戦後直後にかけて燐鉱採掘が行われていたこと及びその後の産業変遷を知る上で重要な景観地である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
解説文
北大東島は沖縄本島東方約360kmに位置する隆起珊瑚礁を起源とする地形を持つ南洋の離島であり,明治期に入って開拓が始まった歴史を持つ。特に,化学肥料の原料となる燐を多く含むグアノ(鳥糞石)が広く堆積していたことから,大正時代から戦後直後にかけて燐鉱石採掘が盛んに行われた。現在も島の北西部に位置する西港周辺では,採掘場,トロッコ軌道,燐鉱石貯蔵庫,船揚げ場等の燐鉱石採掘に関連する一連の生産施設が国内唯一残り,当時の社宅及び福利厚生施設等の生活関連施設が住宅群や民宿として継続的に利用されている。これらの施設では,珊瑚が風化して生成されたドロマイトの白い切石が多用されており,独特の景観を呈している。現在の北大東島の主産業はサトウキビ生産であるが,技術発展とともに近海漁業も盛んになりつつあり,西港周辺ではサトウキビ畑・ため池が広がる一方,往時の施設を利用した魚市場及び水産加工施設が点在する。日本列島南方の特殊な風土によって形成された離島において,大正時代から戦後直後にかけて燐鉱採掘が行われていたこと及びその後の産業変遷を知る上で重要な景観地である。
詳細解説▶
詳細解説
北大東島の燐鉱山由来の文化的景観は、燐鉱採掘に由来する景観地であり、沖縄本島東方約360kmに位置する北大東島北西端に広がる。 北大東島は面積約12k㎡の太平洋上の小さな離島であり、南方約8kmに位置する南大東島(面積約30k㎡)とは、海食崖及び最大深度約1500mの深海によって隔てられる。全島がドロマイト(炭酸塩鉱物、CaMg(Co3)2)から形成されており、島の中央部は「幕(はぐ)」と呼ばれる標高約45mの環状丘陵地に囲まれた盆地状の地形となっている。アダン群落、ダイトウビロウ等の原生に近い植生が残る一方で、サトウキビを中心とした耕作地が広がり、防風林として植えられたゲットウ、リュウキュウマツが広く生育している。亜熱帯海洋性気候に属し、夏・冬ともに東からの季節風が吹く。 無人島であった北大東島の開拓は、1903年に八丈島出身の玉置(たまおき)半(はん)右衛門(えもん)によって始まった。燐鉱採掘は1910年に始まり一時中断後、1919年から1950年にかけて玉置商会の権利を引き継いだ東洋製糖株式会社(のちに大日本製糖株式会社)によって糖業(サトウキビ生産)とともに行われた(戦後は米軍の監督下で採掘がおこなわれた)。この時期に集中する国内の燐鉱採掘は、戦中の食糧増産目的の化学肥料生産のためであり、南鳥島(東京都)・能登島(石川県)・沖大東島(沖縄県)等においても行われた。北大東島では閉山後、主産業が糖業へ移行し、現在は漁業、水産加工業、観光業等も行われている。 北大東島の燐鉱山由来の文化的景観は、島内最高地点である黄金山(こがねやま)(標高74m)から黒部岬へと続く標高の高い地域であり、かつて採掘場、生産施設、社宅街、鉱夫村、港が広がっていた地区から構成される。この地域は、北大東島の隆起環礁に由来する地形の中でも標高が高かったため、海鳥による鳥糞石(グアノ)が長期間にかけて蓄積されて燐鉱が発達したと考えられている。黄金山及び黒部岬が採掘場であり、その中間に社宅街が位置し、社宅街の北と南には、それぞれ鉱夫村の下坂村と大正村、西には生産施設、さらに西の海岸沿いには季節風を避けるように港が立地した。1932年の島人口は1897人、就業人口633人のうち燐鉱採掘に関わったのは、社員19人、現業員34人、鉱夫200人であったという記録が残っている。 燐鉱石は、鉱夫によって手作業で露天掘りされ、日光乾燥し、トロッコにて貯蔵庫に集められ、一時保管される。再びトロッコに乗せられて燐積荷桟橋に運搬されると、海上に張り出した突出部からシュートを伝って艀(はしけ)に落下され、大型船に積み替えられて搬出された。会社出張所の社員が居住、勤務していた社宅街は、南北4本、東西4本の道路による方形区画からなり、採掘場から続く小丘陵が中心域を縦断する。会社出張所のほか社員倶楽部、病院、共同浴場、所長・医師の宿舎、社宅等が立地した。強風に耐えるため、ドロマイトを多用した堅牢な建造物群及び防風石垣が特徴であった。燐鉱採掘業のほか、定期船の乗降、会社が経営する売店での買い物、映画上映会、スポーツ等で賑わいが生まれたという。 現在、埋め立てを免れた採掘場跡では露天掘り跡である階段状の凹地の中にガジュマル等が繁茂し、トロッコ軌道及びトンネル跡を確認することができる一方、埋め立てられた部分に広がるサトウキビ畑は「リンコージ」と呼ばれ、ため池とともにサトウキビ生産の農業景観を呈している。貯蔵庫跡はドロマイト組積造の外壁が風化に耐えながら大規模に残り、燐鉱採掘及び南洋の風土を象徴する構造物となっている。かつての社宅街では、防風石垣が残る社宅が住宅として残るほか、木造平屋建の社員倶楽部が民宿として利用されており、修復されたドロマイト造の出張所とともに往時の社宅街の景観を伝えている。現在も西港からクレーンを利用して陸と船の間で荷役及び乗船が行われており、近年整備された駐船場及び水産加工場等を利用し、今後さらに漁業が発展することが見込まれている。 北大東島には大東宮、金(こん)刀比(ぴ)羅宮(らぐう)、秋葉宮の3社があり、例大祭の奉納相撲では、江戸相撲及び沖縄角力を見ることができる。これは八丈島からの移民と沖縄各地からの労働者が島の文化を形成してきたためであり、沖縄地方の年中行事の中に八丈島に由来する神輿祭り、八丈太鼓等の要素があるのが特徴となっている。 燐鉱採掘施設については、一部が登録有形文化財(建造物)に登録されて以降、2015年から地区の景観調査が開始され、2017年には生産施設(採掘・運搬・加工・貯蔵・積出の一連の生産システムを構成する施設の遺構)が史跡指定された。今回は、生活関連施設(事務所・売店・福利厚生施設・住宅等の生活のための施設)を含めて、北大東島の燐鉱採掘に由来する地域一帯を燐鉱採掘のみならず、糖業及び漁業・水産加工業等の産業変遷を含めて景観地として評価するものである。 北大東島の燐鉱山由来の文化的景観は、日本列島南方の特殊な風土によって形成された離島において、大正時代から戦後直後にかけて行われていた燐鉱採掘及びその後の産業変遷によって形成された景観地であり、我が国民の生活又は生業を知るうえで欠くことのできないものであることから、重要文化的景観に選定し保護を図ろうとするものである。