国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
本隆寺
ふりがな
:
ほんりゅうじ
棟名
:
本堂
棟名ふりがな
:
ほんどう
本隆寺本堂外観
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員数
:
1棟
種別
:
近世以前/寺院
時代
:
江戸前期
年代
:
明暦3年
西暦
:
1657
構造及び形式等
:
桁行七間、梁間七間、入母屋造、正面及び背面向拝付、本瓦葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02606
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2014.01.27(平成26.01.27)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(三)歴史的価値の高いもの
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
京都府
所在地
:
京都府京都市上京区智恵光院五辻上る紋屋町
保管施設の名称
:
所有者名
:
本隆寺
所有者種別
:
寺院
管理団体・管理責任者名
:
本隆寺本堂外観
解説文:
詳細解説
本隆寺は京都市上京区の西陣の中ほどに位置する法華宗真門流の総本山である。本堂を中心として、西に祖師堂が並び建つ。本堂は承応2年(1653)の火災の後、明暦3年(1657)に再建されたもので、京都の日蓮諸宗本山寺院の中では最古である。本格的な七間堂で柱は太く均整のとれた姿を持ち、平面構成は日蓮系仏堂の特徴を良く示している。本堂に続いて建てられた祖師堂も京都府内では最古で、祖師堂の古い有り様を示すものとして貴重である。本堂と祖師堂が並立する配置は日蓮諸宗寺院の代表的配置の一つであり、江戸時代前期から中期にかけての日蓮諸宗寺院の一様相を示すものとして価値が高い。
関連情報
(情報の有無)
附指定
添付ファイル
なし
写真一覧
本隆寺本堂外観
本隆寺本堂外観
本隆寺本堂内観
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本隆寺本堂外観
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本隆寺本堂外観
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本隆寺本堂内観
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解説文
本隆寺は京都市上京区の西陣の中ほどに位置する法華宗真門流の総本山である。本堂を中心として、西に祖師堂が並び建つ。本堂は承応2年(1653)の火災の後、明暦3年(1657)に再建されたもので、京都の日蓮諸宗本山寺院の中では最古である。本格的な七間堂で柱は太く均整のとれた姿を持ち、平面構成は日蓮系仏堂の特徴を良く示している。本堂に続いて建てられた祖師堂も京都府内では最古で、祖師堂の古い有り様を示すものとして貴重である。本堂と祖師堂が並立する配置は日蓮諸宗寺院の代表的配置の一つであり、江戸時代前期から中期にかけての日蓮諸宗寺院の一様相を示すものとして価値が高い。
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詳細解説
本隆寺 二棟 本堂、祖師堂 本隆寺は京都市上京区の西陣地区の中ほど、智恵光院五辻上る紋屋町に位置する。 本隆寺は日蓮門下の諸宗の一つである法華宗真門流の総本山で、慧光無量山本妙興隆寺と号し、略して慧光山本隆寺と称す。 本隆寺は、長享二年(一四八八)に妙顕寺日具の弟子日真が妙顕寺から分派し、四条大宮坊城に堂舎を建立したのを始まりとする。天文五年(一五三六)の天文法華の乱で一山堂宇を焼失し、泉州堺へ難を逃れた。同一一年に堺より京都へ戻り杉若若狭守の邸宅跡地に伽藍を構えたが、天正一二年(一五八四)に豊臣秀吉の命により現在地へ移転した。承応二年(一六五三)に火災により伽藍を焼失し、明暦二年(一六五六)から本堂再建に着手、同三年に再建された。祖師堂も本堂よりやや遅れて再建されたとみられる。その後、享保一五年(一七三〇)の西陣焼け、天明八年(一七八八)の団栗焼けなど洛中の大火により伽藍の大部分を焼失したが本堂と祖師堂は焼け残り、寺観を現在に伝えている。 敷地は東の智恵光院通側に表門を配し、敷地中央に南面して本堂が建つ。本堂の西隣には祖師堂が南面して建ち、廊下で接続する。本堂背面には客殿が建ち、周囲には番神堂、宝蔵、経蔵、鐘楼、南門などが建つ。敷地周囲は塔頭で囲む。本堂と祖師堂は昭和六一年四月一五日付けで京都府指定文化財に指定されている。 本堂は桁行七間、梁間七間、入母屋造、本瓦葺で、四周に擬宝珠高欄付の切目縁を廻らし、正面に三間の向拝、背面に一間の向拝を付す。 平面は正面二間を外陣、後方を内陣とし、後寄り中央に四天柱を立て横長の須弥壇を置き、一塔両尊を中心に諸仏を祀る。内陣背面両隅には一間幅の須弥壇を置き、宮殿を据え、東は大黒天像、西は鬼子母神像などを祀る。内陣両脇は柱筋で幅一間に区画され脇陣とし、脇陣背面一間は壁で仕切り小部屋とする。 軸部は円柱を礎石に立て、側廻りは足固貫、切目長押、内法貫、頭貫で固め、組物は出組、中備を間斗束とするなど和様を基調とする。軒は二軒繁垂木、妻飾りは二重虹梁大瓶束とし、上下段虹梁の中間に蟇股を据え、鰭付の三花懸魚を吊る。内陣廻りは柱頂部に粽を付け、足固貫、内法貫、飛貫二段、頭貫で固め台輪を廻し、組物は出組詰組とするなど禅宗様を基調とした意匠とする。 床は内陣は拭板敷とするが、須弥壇より前は須弥壇正面を除き畳敷とする。外陣及び脇陣も畳敷とし、脇陣背面の小部屋は拭板敷とする。天井は脇陣背面の小部屋を棹縁天井とするほかは鏡天井とする。内陣は小壁を黄大津壁仕上げとし、四天柱廻りから背面にかけて彩色で荘厳され、小壁は天女や植物が描かれる。柱間装置は側廻り側面各四間及び背面中央一間を両開桟唐戸、背面西小部屋に片引板戸とし、外陣廻りの正面間及び側面南より二間に引違ガラス戸を入れるほかは土壁とする。内外陣境は開放で内法貫飛貫間に菱欄間を入れ、内陣脇陣境は開放とする。 外陣は元は側廻りは吹放ちであり、床は現状より一段低い板床で、内外陣境には中央五間に中敷居付き蔀、両端間に両開桟唐戸が入り、内陣脇陣境にも中敷居が入る。日蓮諸宗の仏堂の平面の特徴を良く示す本格的な七間堂である。 西脇壇の宮殿は本堂と同時期とみられ、桁行一間、梁間一間、入母屋造、妻入、板葺で、正面に軒唐破風を付す。東脇壇の宮殿は江戸時代中期頃とみられ、桁行二間、梁間一間、入母屋造、妻入、板葺で、正面に軒唐破風を付す。いずれも軒を三手先の詰組とした禅宗様の宮殿で、金箔や彩色で飾る。 祖師堂は桁行三間、梁間四間、寄棟造、本瓦葺で、屋根は錣状に段差を付け、四周に擬宝珠高欄付の切目縁を廻らし、正面及び背面に各一間の向拝を付す。 平面は正面一間を外陣、後方を内陣とする。内陣中央後寄りに四天柱を立て、横長の須弥壇を置き、宮殿を据え日蓮坐像を祀るほか、日像、日朗坐像を祀る。背面両隅にも須弥壇を設け、東は宮殿を据え開祖日真坐像を祀り、西は位牌壇とする。 軸部は円柱を礎石に立て、側廻りは足固貫、内法貫、飛貫の三段で固め、柱上には舟肘木を据え桁を受ける。軒は二軒繁垂木とする。内部は組物は用いず、廻縁で天井を受ける。 床は外陣は畳敷とし、内陣は拭板敷とするが、須弥壇より前は須弥壇正面を除き畳敷とする。天井は外陣は鏡天井、内陣は格天井とし、須弥壇上から前方にかけて折上げる。柱間装置は側面と背面中央一間に両開桟唐戸、背面東寄りに片引板戸を付し、外陣廻りの正面間及び側面南間に引違ガラス戸を入れるほかは土壁とする。内外陣境は開放とし内法貫飛貫間に菱欄間を入れる。 外陣は元は本堂同様に側廻り吹放ちの板床となり、内外陣境に蔀が付くなど日蓮諸宗の仏堂の特徴を示す。 中央の宮殿は桁行二間、梁間一間、入母屋造、妻入、板葺で、正面に軒唐破風を付す。全体を金箔押しとした禅宗様の宮殿である。東脇壇の宮殿は桁行一間、梁間一間、入母屋造、妻入、板葺で、正面に軒唐破風を付した禅宗様の宮殿で、金箔、彩色で飾る。いずれも祖師堂と同時期とみられる。 廊下は桁行二間、梁間一間、切妻造、本瓦葺で祖師堂と同時期の建築とみられる。床高に虹梁型の桁を架け渡し、妻破風に梅鉢懸魚を吊る。 本隆寺本堂は、旧洛中の日蓮諸宗本山寺院の中で、江戸時代前期に遡る最古の本堂である。本格的な七間堂で柱は太く均整のとれた姿を持ち、平面は日蓮諸宗の仏堂の特徴を良く示している。本堂に続いて建てられた祖師堂も京都府内最古の祖師堂であり、古い祖師堂の有り様を示すものとして貴重である。本堂と祖師堂が並立する配置は日蓮諸宗寺院の代表的配置の一つであり、江戸時代前期から中期にかけての日蓮諸宗寺院の一様相を示すものとして価値が高い。 【参考文献】 『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会 一九八三年) 『本隆寺本堂及び祖師堂調査報告書』(本隆寺 二〇一三年)
関連情報
附指定
棟札
宮殿
廊下
関連情報
附指定
附名称
:
棟札
附員数
:
1枚
関連情報
附指定
附名称
:
宮殿
附員数
:
2基
関連情報
附指定
附名称
:
廊下
附員数
:
1棟