国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
善光寺本堂
ふりがな
:
ぜんこうじほんどう
棟名
:
棟名ふりがな
:
善光寺本堂1
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員数
:
1棟
種別
:
近世以前/寺院
時代
:
江戸中期
年代
:
宝永4
西暦
:
1707
構造及び形式等
:
桁行十四間、梁間五間、一重もこし付、撞木造、妻入、正面向拝三間、
軒唐破風付、両側面向拝各一間、総檜皮葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
00106
国宝・重文区分
:
国宝
重文指定年月日
:
1908.04.23(明治41.04.23)
国宝指定年月日
:
1953.03.31(昭和28.03.31)
追加年月日
:
重文指定基準1
:
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
長野県
所在地
:
長野県長野市大字長野元善町
保管施設の名称
:
所有者名
:
善光寺
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
善光寺本堂1
解説文:
詳細解説
善光寺は、推古十年の創立と伝わる古刹である。現在の本堂は元禄十三年(一七〇〇)の炎上のあとの再建であって、別当慶運が浄財を集め、大工甲良豊前入道宗賀の設計によって宝永四年七月完成した。
桁行(側面)十四間、梁間(正面)五間のきわめて縦長の建物である。柱はすべて丸柱で、入側柱が高く、三手先組物で軒を支え、T字形の棟をもつ入母屋造屋根をかける。
善光寺本堂は、奥行の深い平面を持つ規模の宏壮な建物で、独創的な形状は、仏殿建築として一生面を開いたものと云える。その非凡な設計は德川時代中期に於ける傑作である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
添付ファイル
なし
写真一覧
善光寺本堂1
善光寺本堂
善光寺本堂 内部
善光寺本堂2
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善光寺本堂1
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善光寺本堂
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善光寺本堂 内部
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善光寺本堂2
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解説文
善光寺は、推古十年の創立と伝わる古刹である。現在の本堂は元禄十三年(一七〇〇)の炎上のあとの再建であって、別当慶運が浄財を集め、大工甲良豊前入道宗賀の設計によって宝永四年七月完成した。 桁行(側面)十四間、梁間(正面)五間のきわめて縦長の建物である。柱はすべて丸柱で、入側柱が高く、三手先組物で軒を支え、T字形の棟をもつ入母屋造屋根をかける。 善光寺本堂は、奥行の深い平面を持つ規模の宏壮な建物で、独創的な形状は、仏殿建築として一生面を開いたものと云える。その非凡な設計は德川時代中期に於ける傑作である。
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詳細解説
善光寺本堂 一棟 善光寺の創立については、古い記録に乏しく、あまり明らかでないが、伝えられるところはきわめて古く、蘇我・物部両氏の争いによって難波の堀江にすてられた仏像を、秦巨勢大夫(はたのこせだゆう)が奉じて信濃に移したのが始まりで、皇極元年または天智三年に寺にしたという。古い時代の堂の位置は、古瓦の出土状況から考えると、現在の総門付近であったらしい。現在の本堂は元禄十三年(一七〇〇)の炎上のあとの再建であって、宝永二年(一七〇五)着工、同四年(一七〇七)竣工した。設計は幕府の棟梁甲良宗賀であり、棟梁は弟子木村万兵衛であった。 現本堂はきわめて縦長の建物である。すなわち、桁行(側面)が十四間にもおよぶのに梁間(正面)は五間である。前面五間の向拝からのぼると、最前列の一間は開放となっており、それから奥へ九間分が広い外陣となる。そのうち第四の柱間が広くとられ、ここへは側面の向拝からのぼれるようになっている。それより奥は、外陣ながら畳敷となっている。外陣最奥には五間の扉構えがあって、それより三間が畳敷の中陣となる。中陣の奥は三間の内陣で、本尊および創立者の善光夫妻と長子善佐をまつる。なお内陣下には地下室ができており、いわゆる戒壇めぐりができるようになっている。 このような縦長の平面は、日本建築としては異色のものといえる。元来仏堂建築は、奥行が通常二間、多くても三間の母屋(もや)の周囲に庇をめぐらす平面となるのが原則で、桁行方向は三十三間堂のように長くすることができても、梁間方向には限度があった。その欠点を克服するために、二棟を前後に並べた双堂または礼堂造と呼ばれる形式ができ、それがほぼ正方形平面の中世密教本堂につながるのである。こういった仏堂平面の変遷からみると、この本堂は特殊な平面をもつといわざるをえない。近世になって仏教が庶民化したために広い外陣を必要としたので、この平面ができたとする考えもあるが、善光寺如来伝絵をみると、中世にすでに相当縦長の平面になっている。それ故、この本堂はかなり古くから特別な平面であったとみるほかあるまい。 つぎに現本堂の立面を述べよう。柱はすべて丸柱で、入側柱が高く、三手先組物で軒を支え、T字形の棟をもつ入母屋造屋根をかける。このT字形が鐘や鉦を打ち鳴らす撞木に似ているので撞木造という。これに対し側柱は低く、出組をおいて腰屋根をのせる。つまり裳階である。正面向拝部には軒唐破風を設けている。柱間装置は正面中央五間、背面中央三間および側面二ヶ所ずつに桟唐戸を開き、また正面両脇間と両側面内陣部入口に舞良戸を引違いとするほかは、ほとんど連子窓である。 内部は、周囲一間通りを化粧屋根とするほか、入側柱より内側は柱の途中に挿肘木を入れて組物を設け、天井を張っている。天井は、主要部が内陣、中陣とも折上格天井、外陣は格天井である。 この本堂は、寺の特殊な歴史を反映しているとともに、江戸時代の民間信仰にもこたえられるような設計になっている。元禄時代に多く造営された大規模建築のひとつとして、時代の風潮をよく示している。 【引用文献】 『国宝大辞典(五)建造物』(講談社 一九八五年)
関連情報
附指定
厨子
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附指定
附名称
:
厨子
附員数
:
1基