国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
立花家文書
ふりがな
:
たちばなけもんじょ
戸次道雪譲状写(立花文書)
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員数
:
種別
:
古文書
国
:
日本
時代
:
室町~明治
年代
:
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
00193
枝番
:
00
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2004.06.08(平成16.06.08)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
福岡県
所在地
:
柳川古文書館 福岡県柳川市隅町71-2
保管施設の名称
:
柳川古文書館
所有者名
:
福岡県・公益財団法人立花財団立花家史料館
管理団体・管理責任者名
:
福岡県
戸次道雪譲状写(立花文書)
解説文:
立花氏は大友氏第六代貞宗【さだむね】の子貞載【さだとし】(?~一三三六)が筑前国粕屋郡の立花城主となり立花氏を称したのに始まり、立花鑑載滅亡後は同じく大友氏の一族戸次鑑連【べっきあきつら】(道雪)の養子統虎【むねとら】(宗茂【むねしげ】)が同城に拠り立花氏を称した。安土桃山時代、宗茂は柳河城主となり、関ヶ原の戦いで西軍に味方したため改易となった。その後、元和六年(一六二〇)田中吉政改易の跡をうけて柳河に再入封し、筑後五郡一〇万九六〇〇石余を領した。柳河藩は三池藩一万石を分立したりするが、初期を除き改易転封はなく、立花氏は柳河藩主として歴代相次ぎ、宗茂以降一一代を経て、一二代鑑寛のときに明治維新・廃藩置県を迎えた。
立花家文書として知られるものは、現在大きく立花家所蔵になる家文書と福岡県(県立伝習館高等学校)所蔵になる柳河藩政資料とに分かれるが、本来は柳河藩立花家に一括して伝わったものである。指定にあたっては、その歴史性を勘案して、併せて一括とした。
家文書である立花家文書は、立花家の歴史を反映して、(一)刀狩令をはじめとする豊臣秀吉から立花宗茂宛の文書、(二)柳河藩政の確立期における検地の実施、(三)藩制創出における家臣団の構成、(四)藩財政や農政などに関する文書などが伝えられている。その中心は御宝蔵に収蔵されていた文書群で、御宝蔵御書類目録によると、仁、義、礼、智、信、第一~十三号と歴代藩主ごとに分類されている。立花家の重書とされる文書で文書箱別に収納されていた。文書箱として「御感状箱」と「黒塗朱御定紋箱」とがある。御感状箱には「仁」として戸次道雪関係文書、「義」として立花宗茂関係文書が収納されていた。黒塗朱御定紋箱の蓋上には「禮智及三号、四号、五号、六号、七号、八号、十一号、十三号入」という貼紙があり、「禮」には立花宗茂関係、「智」には立花鑑虎以降の藩主関係、三号(領知)から十一号(蹴鞠)までは内容によって分類され、十三号は「雑」となっている。欠番のうち、一・二号は別置されており、一号は歴代藩主の宣旨、口宣案、位記、二号は将軍家判物と領知目録であることが判明し、九・十・十二号は長棹からみつかり、さらに「信」として鑑寿関係の存在が知られた。近世文書に注目してみると、(一)立花氏の出自に関する戸次・大友系図や『寛永諸家系図伝』の家系図控などの系譜関係、(二)歴代藩主の宣旨、口宣案、位記などの朝廷関係、(三)将軍印判状や老中奉書などを含み、幕閣と柳河藩との政治関係をうかがう上での好史料である幕藩関係、(四)藩領領知高などの近世初期の重要な農政史料をはじめとする藩政関係、(五)近世前期の軍役帳、江戸城普請分担図や寛永十四年十二月の島原の乱における「嶋原御陣御備書」などの軍役・武芸関係、(六)元治元年(一八六四)十月、第一次長州征討などの幕末政局関係に大別される。
柳河藩政資料は、立花家の私設図書館である対山館において収蔵・公開中であった立花家旧蔵文書のうち閉館により、藩校の伝統を引き継ぐ現在の県立伝習館高等学校に移管・架蔵され、伝習館文庫として同校および伝習館高等学校同窓会によって守り伝えられてきた文書群で、昭和二十七年福岡県指定文化財になっている。本文書の全体的な特徴としては、藩政関係以下の累年にわたる諸日記・記録・書状類や地図・絵図に至るまで豊富であり、とりわけ近世中期から同末期までと、明治初期の日記・記録類がきわめて充実している。内容としては柳河藩主と主要家臣の事蹟、系譜に関するものが多い。(一)日記類は約五〇〇冊に及び、柳河、江戸における藩主の日々の動静を記す『用人日記』『江戸用人日記』が半数弱を占めている。一方、奥向きの日記として『江戸奥納戸日記』や御花畑奥祐筆の女性が記した『女中日記』などがある。その内容は大名家における日常生活の様子が垣間みえる。その他、日記・記録類の出納係である記録方の日勤簿などは具体的な仕事内容や勤務状況などをうかがえて興味深い。(二)約一七〇冊の記録方記録をみてみると、参勤交代の道程や諸経費などを詳細に記録した『参勤記録』、寛永十三年(一六三六)の江戸石垣普請や承応三年(一六五四)の内裏築地などの公儀手伝普請を記録した『御手伝記録』があり、初期藩政および藩財政の一端がうかがい知れる。各役職からの諸願や伺などを記録した『重職記録』『中老記録』『六組諸願記録』『徒組記録』などは家臣団の実態を示して注目される。…全文は添付ファイルを参照
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
添付ファイル
写真一覧
戸次道雪譲状写(立花文書)
御城御絵図(伝習館文庫)
大友宗麟・義統連署書状(立花文書)
嶋原御陣図(伝習館文庫)
徳川家光領知充行状(立花文書)
豊臣秀吉朱印状(立花文書)
豊臣秀吉領知朱印状(立花文書)
用人日記(伝習館文庫)
写真一覧
戸次道雪譲状写(立花文書)
写真一覧
御城御絵図(伝習館文庫)
写真一覧
大友宗麟・義統連署書状(立花文書)
写真一覧
嶋原御陣図(伝習館文庫)
写真一覧
徳川家光領知充行状(立花文書)
写真一覧
豊臣秀吉朱印状(立花文書)
写真一覧
豊臣秀吉領知朱印状(立花文書)
写真一覧
用人日記(伝習館文庫)
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解説文
立花氏は大友氏第六代貞宗【さだむね】の子貞載【さだとし】(?~一三三六)が筑前国粕屋郡の立花城主となり立花氏を称したのに始まり、立花鑑載滅亡後は同じく大友氏の一族戸次鑑連【べっきあきつら】(道雪)の養子統虎【むねとら】(宗茂【むねしげ】)が同城に拠り立花氏を称した。安土桃山時代、宗茂は柳河城主となり、関ヶ原の戦いで西軍に味方したため改易となった。その後、元和六年(一六二〇)田中吉政改易の跡をうけて柳河に再入封し、筑後五郡一〇万九六〇〇石余を領した。柳河藩は三池藩一万石を分立したりするが、初期を除き改易転封はなく、立花氏は柳河藩主として歴代相次ぎ、宗茂以降一一代を経て、一二代鑑寛のときに明治維新・廃藩置県を迎えた。 立花家文書として知られるものは、現在大きく立花家所蔵になる家文書と福岡県(県立伝習館高等学校)所蔵になる柳河藩政資料とに分かれるが、本来は柳河藩立花家に一括して伝わったものである。指定にあたっては、その歴史性を勘案して、併せて一括とした。 家文書である立花家文書は、立花家の歴史を反映して、(一)刀狩令をはじめとする豊臣秀吉から立花宗茂宛の文書、(二)柳河藩政の確立期における検地の実施、(三)藩制創出における家臣団の構成、(四)藩財政や農政などに関する文書などが伝えられている。その中心は御宝蔵に収蔵されていた文書群で、御宝蔵御書類目録によると、仁、義、礼、智、信、第一~十三号と歴代藩主ごとに分類されている。立花家の重書とされる文書で文書箱別に収納されていた。文書箱として「御感状箱」と「黒塗朱御定紋箱」とがある。御感状箱には「仁」として戸次道雪関係文書、「義」として立花宗茂関係文書が収納されていた。黒塗朱御定紋箱の蓋上には「禮智及三号、四号、五号、六号、七号、八号、十一号、十三号入」という貼紙があり、「禮」には立花宗茂関係、「智」には立花鑑虎以降の藩主関係、三号(領知)から十一号(蹴鞠)までは内容によって分類され、十三号は「雑」となっている。欠番のうち、一・二号は別置されており、一号は歴代藩主の宣旨、口宣案、位記、二号は将軍家判物と領知目録であることが判明し、九・十・十二号は長棹からみつかり、さらに「信」として鑑寿関係の存在が知られた。近世文書に注目してみると、(一)立花氏の出自に関する戸次・大友系図や『寛永諸家系図伝』の家系図控などの系譜関係、(二)歴代藩主の宣旨、口宣案、位記などの朝廷関係、(三)将軍印判状や老中奉書などを含み、幕閣と柳河藩との政治関係をうかがう上での好史料である幕藩関係、(四)藩領領知高などの近世初期の重要な農政史料をはじめとする藩政関係、(五)近世前期の軍役帳、江戸城普請分担図や寛永十四年十二月の島原の乱における「嶋原御陣御備書」などの軍役・武芸関係、(六)元治元年(一八六四)十月、第一次長州征討などの幕末政局関係に大別される。 柳河藩政資料は、立花家の私設図書館である対山館において収蔵・公開中であった立花家旧蔵文書のうち閉館により、藩校の伝統を引き継ぐ現在の県立伝習館高等学校に移管・架蔵され、伝習館文庫として同校および伝習館高等学校同窓会によって守り伝えられてきた文書群で、昭和二十七年福岡県指定文化財になっている。本文書の全体的な特徴としては、藩政関係以下の累年にわたる諸日記・記録・書状類や地図・絵図に至るまで豊富であり、とりわけ近世中期から同末期までと、明治初期の日記・記録類がきわめて充実している。内容としては柳河藩主と主要家臣の事蹟、系譜に関するものが多い。(一)日記類は約五〇〇冊に及び、柳河、江戸における藩主の日々の動静を記す『用人日記』『江戸用人日記』が半数弱を占めている。一方、奥向きの日記として『江戸奥納戸日記』や御花畑奥祐筆の女性が記した『女中日記』などがある。その内容は大名家における日常生活の様子が垣間みえる。その他、日記・記録類の出納係である記録方の日勤簿などは具体的な仕事内容や勤務状況などをうかがえて興味深い。(二)約一七〇冊の記録方記録をみてみると、参勤交代の道程や諸経費などを詳細に記録した『参勤記録』、寛永十三年(一六三六)の江戸石垣普請や承応三年(一六五四)の内裏築地などの公儀手伝普請を記録した『御手伝記録』があり、初期藩政および藩財政の一端がうかがい知れる。各役職からの諸願や伺などを記録した『重職記録』『中老記録』『六組諸願記録』『徒組記録』などは家臣団の実態を示して注目される。…全文は添付ファイルを参照
関連情報
一つ書
一、立花家文書(九千百十三通)
一、柳河藩立花家文書(五千五百十一通)
関連情報
添付ファイル
重要文化財193解説文
関連情報
一つ書
一つ書主名称
:
一、立花家文書(九千百十三通)
一つ書員数
:
百十九巻、五百九十一冊、九帖、十五幅、七千七百十二通、三百五鋪、十綴、五枚
ト書
:
関連情報
一つ書
一つ書主名称
:
一、柳河藩立花家文書(五千五百十一通)
一つ書員数
:
三巻、千六百一冊、二千八十三通、十一鋪、四綴
ト書
: