国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
浄光明寺敷地絵図
ふりがな
:
じょうこうみょうじしきちえず
解説表示▶
員数
:
1幅
種別
:
古文書
国
:
日本
時代
:
南北朝
年代
:
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
00196
枝番
:
00
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2005.06.09(平成17.06.09)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
神奈川県
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
浄光明寺
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
本図は、浄光明寺の境内の建物や周囲の景観、屋地を描いた絵図である。
楮紙四紙を貼り継ぎ、図の中央に「浄光明寺敷地□圖」と墨書する。四隅には、右上に「北」、右下に「東」、左下に「南」とそれぞれ方角が記されるが、左上「西」部分は破損している。図の中央には、基壇上に建つ正面五間の裳層付の仏殿などの建物が詳細に描かれる。境内外には、廃寺となった「多寳寺」「東林寺」や、「守時跡」「右馬権助跡」「刑部跡」など某「跡」が見える。守時は鎌倉幕府最後の執権赤橋守時【もりとき】(一二九五~一三三三)で、これらの「跡」は、幕府滅亡によって跡地となった北条氏関係の屋地と考えられる。それぞれには「今所望」の朱書があり、幕府滅亡後の寺領安堵に際して、浄光明寺が跡地の寺領への組み入れを所望したものと思われる。建武新政権に認められた跡地の大部分と境内地を含めて朱線で囲み、その上に証判として頭を中央境内へ向けた花押が七か所に据えられている。この花押は足利氏に重用された上杉重能【しげよし】(生年未詳~一三四九)のものであることが確認できる。重能の花押は、寺領安堵に際して同様の役割を果たしたと考えられている、ほぼ同時代の円覚寺境内絵図(重文、円覚寺所蔵)にも据えられている。
本図には年紀が記されていないが、屋地が跡地になっていることから、鎌倉幕府滅亡の元弘三年(一三三三)五月二十二日以降に作成されたこと、上杉重能は建武二年(一三三五)十二月に鎌倉を離れていることを考え併せると、絵図の成立時期は、元弘三年から建武二年までの二年間と考えられる。
ところで、本図の方角記載は、北を上にした一般的な絵図とは異なる。これは寺領を示すという本図の作成目的から、仏殿を正面向きに描き、実際の地理的方角を示した結果である。
また、金沢文庫文書中の「崇顕書状」(金沢貞顕、一二七八~一三三三)には、浄光明寺周辺で起きた火災の様子や家屋の位置関係が仔細に記されている。本図に見える「右馬権助」「刑部」の名が確認され、本図と照合すると、寺や居住地がほぼ同じ位置に該当することを確認できる。
このように、本図は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての浄光明寺の境内の様子と寺域の規模、周辺の様子を伝える史料として貴重である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
解説文
本図は、浄光明寺の境内の建物や周囲の景観、屋地を描いた絵図である。 楮紙四紙を貼り継ぎ、図の中央に「浄光明寺敷地□圖」と墨書する。四隅には、右上に「北」、右下に「東」、左下に「南」とそれぞれ方角が記されるが、左上「西」部分は破損している。図の中央には、基壇上に建つ正面五間の裳層付の仏殿などの建物が詳細に描かれる。境内外には、廃寺となった「多寳寺」「東林寺」や、「守時跡」「右馬権助跡」「刑部跡」など某「跡」が見える。守時は鎌倉幕府最後の執権赤橋守時【もりとき】(一二九五~一三三三)で、これらの「跡」は、幕府滅亡によって跡地となった北条氏関係の屋地と考えられる。それぞれには「今所望」の朱書があり、幕府滅亡後の寺領安堵に際して、浄光明寺が跡地の寺領への組み入れを所望したものと思われる。建武新政権に認められた跡地の大部分と境内地を含めて朱線で囲み、その上に証判として頭を中央境内へ向けた花押が七か所に据えられている。この花押は足利氏に重用された上杉重能【しげよし】(生年未詳~一三四九)のものであることが確認できる。重能の花押は、寺領安堵に際して同様の役割を果たしたと考えられている、ほぼ同時代の円覚寺境内絵図(重文、円覚寺所蔵)にも据えられている。 本図には年紀が記されていないが、屋地が跡地になっていることから、鎌倉幕府滅亡の元弘三年(一三三三)五月二十二日以降に作成されたこと、上杉重能は建武二年(一三三五)十二月に鎌倉を離れていることを考え併せると、絵図の成立時期は、元弘三年から建武二年までの二年間と考えられる。 ところで、本図の方角記載は、北を上にした一般的な絵図とは異なる。これは寺領を示すという本図の作成目的から、仏殿を正面向きに描き、実際の地理的方角を示した結果である。 また、金沢文庫文書中の「崇顕書状」(金沢貞顕、一二七八~一三三三)には、浄光明寺周辺で起きた火災の様子や家屋の位置関係が仔細に記されている。本図に見える「右馬権助」「刑部」の名が確認され、本図と照合すると、寺や居住地がほぼ同じ位置に該当することを確認できる。 このように、本図は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての浄光明寺の境内の様子と寺域の規模、周辺の様子を伝える史料として貴重である。