国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
木造釈迦如来及両脇侍坐像
ふりがな
:
解説表示▶
員数
:
3躯
種別
:
彫刻
国
:
日本
時代
:
南北朝
年代
:
1341
西暦
:
1341
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
右脇侍像内に暦応二三月、豪円の銘がある
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
03488
枝番
:
00
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2000.06.27(平成12.06.27)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
京都府
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
安国寺
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
半丈六の釈迦像を中尊とする三尊像で、丹波安国寺本尊として伝えられる。中尊は髻を結って宝冠をいただき、法界定印を結ぶいわゆる宝冠釈迦で、禅刹本尊として一般的な姿である。両脇侍像が大衣を着けて坐るのは宝冠釈迦像の脇侍の通形であるが、文殊菩薩が五髻を結う点が変わっている。
いずれもヒノキ材の寄木造で玉眼を施す。釈迦如来は頭部が前後矧で三道下で差首もしくは割首を行い、体幹部は前後二材矧、両肩外側部は各左右二材矧とし、両足部は上面、見付および両側面を箱組式に組む。左脇侍は頭体幹部を通して前後二材より造り、体部背面に一材を矧ぎ、両肩外側部は各一材製、両足部も一材製とする。右脇侍像も大略同様の構造とみられる。表面はいずれも錆下地(布貼りあり)で肉身部が金泥塗、衣部は金泥地(右脇侍では一部彩色)に切金および盛り上げ文様を施す。
平成十一年に行われた調査により、右脇侍像内の頭部正面に「豪円/暦応/□巳三月」の墨書が見出され、暦応四年(一三四一)の製作年および作者名が明らかとなった。豪円【ごうえん】は翌康永元年に薬師如来立像(個人蔵)を造ったことが知られる円派仏師である。
三尊は、両脇侍が中尊に比べやや細面であるなど多少の違いはあるものの相似た作風を示しており、着衣の縁にゆるやかな反転曲線を用い、腹部の大衣折り返しに枝分かれする褶襞をあしらうなどの点に当代円派仏師の特徴が顕著に示されている。同時代の院派作例と比較すると、表情や衣文構成に癖がなく、全体に自然なまとまりを感じさせる。豪円が三尊全体の大仏師であったかはともかく、同派仏師による品の良い巧技をよく示す作といえる。
安国寺はもと光福寺と号し、当地を領有する上杉氏を檀越としていたが、足利貞氏に嫁いだ上杉清子が尊氏・直義兄弟を産んだゆかりにより足利将軍家の氏寺とされ、高い寺格と多くの寺領を有するこの地方の大寺として重きをなした。建武元年(一三三四)から貞和二年(一三四六)にかけて尊氏ほかより九回にわたり所領の寄進を受け、同時期に安国寺への改称もなされたとみられるが、本像の造立はまさにこの間に行われている。諸国安国寺の設置期にその本尊として造られた稀少の遺品であり、しかも時の権力者の帰依をうけた造像にふさわしい大作として、その優れた出来栄えとあわせて高く評価されよう。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
解説文
半丈六の釈迦像を中尊とする三尊像で、丹波安国寺本尊として伝えられる。中尊は髻を結って宝冠をいただき、法界定印を結ぶいわゆる宝冠釈迦で、禅刹本尊として一般的な姿である。両脇侍像が大衣を着けて坐るのは宝冠釈迦像の脇侍の通形であるが、文殊菩薩が五髻を結う点が変わっている。 いずれもヒノキ材の寄木造で玉眼を施す。釈迦如来は頭部が前後矧で三道下で差首もしくは割首を行い、体幹部は前後二材矧、両肩外側部は各左右二材矧とし、両足部は上面、見付および両側面を箱組式に組む。左脇侍は頭体幹部を通して前後二材より造り、体部背面に一材を矧ぎ、両肩外側部は各一材製、両足部も一材製とする。右脇侍像も大略同様の構造とみられる。表面はいずれも錆下地(布貼りあり)で肉身部が金泥塗、衣部は金泥地(右脇侍では一部彩色)に切金および盛り上げ文様を施す。 平成十一年に行われた調査により、右脇侍像内の頭部正面に「豪円/暦応/□巳三月」の墨書が見出され、暦応四年(一三四一)の製作年および作者名が明らかとなった。豪円【ごうえん】は翌康永元年に薬師如来立像(個人蔵)を造ったことが知られる円派仏師である。 三尊は、両脇侍が中尊に比べやや細面であるなど多少の違いはあるものの相似た作風を示しており、着衣の縁にゆるやかな反転曲線を用い、腹部の大衣折り返しに枝分かれする褶襞をあしらうなどの点に当代円派仏師の特徴が顕著に示されている。同時代の院派作例と比較すると、表情や衣文構成に癖がなく、全体に自然なまとまりを感じさせる。豪円が三尊全体の大仏師であったかはともかく、同派仏師による品の良い巧技をよく示す作といえる。 安国寺はもと光福寺と号し、当地を領有する上杉氏を檀越としていたが、足利貞氏に嫁いだ上杉清子が尊氏・直義兄弟を産んだゆかりにより足利将軍家の氏寺とされ、高い寺格と多くの寺領を有するこの地方の大寺として重きをなした。建武元年(一三三四)から貞和二年(一三四六)にかけて尊氏ほかより九回にわたり所領の寄進を受け、同時期に安国寺への改称もなされたとみられるが、本像の造立はまさにこの間に行われている。諸国安国寺の設置期にその本尊として造られた稀少の遺品であり、しかも時の権力者の帰依をうけた造像にふさわしい大作として、その優れた出来栄えとあわせて高く評価されよう。