国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
葛川明王院文書
ふりがな
:
かつらがわみょうおういんもんじょ
解説表示▶
員数
:
4336通
種別
:
古文書
国
:
日本
時代
:
平安~江戸
年代
:
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
00132
枝番
:
00
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
1991.06.21(平成3.06.21)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
滋賀県
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
明王院
管理団体・管理責任者名
:
延暦寺
解説文:
明王院に伝来した文書で、永久五年(一一一七)売券案を上限として江戸時代後期に至る四千三百三十六通を存する。
明王院は、貞観年間(八五九-八七七)相応和尚の開基になり、六月の蓮華会の参籠など天台修験の行所として知られ、葛川の地は、「明王御領」と呼ばれた霊場として青蓮院および無動寺の支配下に常住をもってその管理が行われた。葛川の住人らは明王に直接隷属しその奉仕活動を行っていたことから彼らの生活権は著しく制限されていたが、鎌倉時代後期、伊香立庄など近隣の庄園との相論を通じて、合法的に居住権・開発権を獲得するにいたり、こうしたなかで政所における「寄合」を中心に惣結合が強化され、やがて明王院自体も村落寺院へと変質していった。
本文書は、このような明王院の歴史を反映して、その内容は綸旨、令旨、住人等申状、幕府御教書など支配、訴訟に関する文書や、年貢算用状、請取状など寺の経済状態を示す文書のほか、法会や行者参籠の次第について記したものに大別され、このうち中世文書は九八〇余通を数える。文書中、仁平二年(一一五二)正月二十二日葛川常住僧等解は、葛川の四至を初めて明示し、後々の相論において葛川の領域主張の根本文書となったものとして注目される。鎌倉時代中期より南北朝時代に至るまでに繰り返し行った葛川と伊香立庄との相論のなかで、とくに文保元、二年(一三一七、八)の堺相論に関する文書が一〇〇通近く集中しているが、このうち文保二年四月葛川行者衆議陳状案は、行者が葛川の在家数制限撤廃を提唱し、葛川住人の居住権の主張が領主青蓮院によって認められるきっかけとなった文書として興味深い。また当時の住人・浪人という葛川住人らの構成が知られる同年五月葛川根本住人末孫交名注文等や、強窃盗に対する住人の自検断の行使を示す正安二年(一三〇〇)九月無動寺衆徒陳状案のほか、住民らによって展開された開発活動の鎌倉後期における到達点を伝える元徳三年(一三三一)当所々当並散在年貢注文などがみえている。建武二年(一三三六)葛川行者参籠日記は源愉が鎌倉時代の数次にわたる参籠の古記を集成したもので、以下、室町時代の行者参籠の次第を伝える葛川参籠行者名簿がまとまっている。さらに、隣村が明王山において一定の境界により伐採を許された際に提出した山請証文は、永正元年(一五〇四)より江戸後期におよぶ一二〇〇通余を数え、霊場であった明王山への近隣住民の係わり方の変遷を伝えて注目される。このように、本文書は、霊地葛川における明王院と住人との関係を示すものが多く、伊香立庄等の他領との堺相論、中世村落の形成、材木等をめぐる経済活動をはじめ、行者参籠の様相など葛川の中世から近世への歴史的変遷を具体的に伝えており、わが国の社会経済史研究上に重要な史料である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
一つ書
なし
添付ファイル
なし
解説文
明王院に伝来した文書で、永久五年(一一一七)売券案を上限として江戸時代後期に至る四千三百三十六通を存する。 明王院は、貞観年間(八五九-八七七)相応和尚の開基になり、六月の蓮華会の参籠など天台修験の行所として知られ、葛川の地は、「明王御領」と呼ばれた霊場として青蓮院および無動寺の支配下に常住をもってその管理が行われた。葛川の住人らは明王に直接隷属しその奉仕活動を行っていたことから彼らの生活権は著しく制限されていたが、鎌倉時代後期、伊香立庄など近隣の庄園との相論を通じて、合法的に居住権・開発権を獲得するにいたり、こうしたなかで政所における「寄合」を中心に惣結合が強化され、やがて明王院自体も村落寺院へと変質していった。 本文書は、このような明王院の歴史を反映して、その内容は綸旨、令旨、住人等申状、幕府御教書など支配、訴訟に関する文書や、年貢算用状、請取状など寺の経済状態を示す文書のほか、法会や行者参籠の次第について記したものに大別され、このうち中世文書は九八〇余通を数える。文書中、仁平二年(一一五二)正月二十二日葛川常住僧等解は、葛川の四至を初めて明示し、後々の相論において葛川の領域主張の根本文書となったものとして注目される。鎌倉時代中期より南北朝時代に至るまでに繰り返し行った葛川と伊香立庄との相論のなかで、とくに文保元、二年(一三一七、八)の堺相論に関する文書が一〇〇通近く集中しているが、このうち文保二年四月葛川行者衆議陳状案は、行者が葛川の在家数制限撤廃を提唱し、葛川住人の居住権の主張が領主青蓮院によって認められるきっかけとなった文書として興味深い。また当時の住人・浪人という葛川住人らの構成が知られる同年五月葛川根本住人末孫交名注文等や、強窃盗に対する住人の自検断の行使を示す正安二年(一三〇〇)九月無動寺衆徒陳状案のほか、住民らによって展開された開発活動の鎌倉後期における到達点を伝える元徳三年(一三三一)当所々当並散在年貢注文などがみえている。建武二年(一三三六)葛川行者参籠日記は源愉が鎌倉時代の数次にわたる参籠の古記を集成したもので、以下、室町時代の行者参籠の次第を伝える葛川参籠行者名簿がまとまっている。さらに、隣村が明王山において一定の境界により伐採を許された際に提出した山請証文は、永正元年(一五〇四)より江戸後期におよぶ一二〇〇通余を数え、霊場であった明王山への近隣住民の係わり方の変遷を伝えて注目される。このように、本文書は、霊地葛川における明王院と住人との関係を示すものが多く、伊香立庄等の他領との堺相論、中世村落の形成、材木等をめぐる経済活動をはじめ、行者参籠の様相など葛川の中世から近世への歴史的変遷を具体的に伝えており、わが国の社会経済史研究上に重要な史料である。
関連情報
附指定
文保二年文書櫃
関連情報
附指定
附名称
:
文保二年文書櫃
附員数
:
三合
附ト書
: