国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要有形民俗文化財
主情報
名称
:
生駒十三峠の十三塚
ふりがな
:
いこまじゅうさんとうげのじゅうさんづか
生駒十三峠の十三塚
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員数
:
13基
種別
:
信仰に用いられるもの
年代
:
その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
00168
指定年月日
:
1986.03.31(昭和61.03.31)
追加年月日
:
指定基準1
:
(六)信仰に用いられるもの 例えば、祭祀(し)具、法会具、奉納物、偶像類、呪(じゆ)術用具、社祠(し)等
指定基準2
:
指定基準3
:
所在都道府県
:
奈良県
所在地
:
生駒郡平群町福貴畑2310番のうち実測450.7㎡
生駒郡平群町福貴畑2691番のうち実測173.8㎡
大阪府八尾市神立994番の1のうち実測634.7㎡
保管施設の名称
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
生駒十三峠の十三塚
解説文:
詳細解説
我が国の各地には塚に対して特別の信仰を寄せる習俗がみられる。十三塚もその一つで、13基の塚が並んでいるものに対して命名されたものである。供養塚、境界指標、修法壇などの性格が指摘されているが、近年では、その名称を「十三仏塚」とするものもあることから、15~16世紀にかけて成立展開した十三仏信仰にともない築造されたとする説が有力である。
生駒十三峠の十三塚は、大和国と河内国の国境にまたがって所在し、河内から大和へ抜ける十三街道の十三峠の北側にある。13の塚は稜線上に列状をなし、最高所に中央の王塚がひときわ大きく築かれている。王塚は、神武天皇の皇后の御陵で小塚は殉死者の塚であると伝えられ、塚に触れると崇りがあり、塚に雨乞いをし、塚に祈ると災難や疾病が平癒するといわれる。王塚の裾には割石の石敷が設けられ、側に「十三塚」と陰刻した仏像がある。
関連情報
(情報の有無)
附
なし
添付ファイル
なし
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生駒十三峠の十三塚
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生駒十三峠の十三塚
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解説文
我が国の各地には塚に対して特別の信仰を寄せる習俗がみられる。十三塚もその一つで、13基の塚が並んでいるものに対して命名されたものである。供養塚、境界指標、修法壇などの性格が指摘されているが、近年では、その名称を「十三仏塚」とするものもあることから、15~16世紀にかけて成立展開した十三仏信仰にともない築造されたとする説が有力である。 生駒十三峠の十三塚は、大和国と河内国の国境にまたがって所在し、河内から大和へ抜ける十三街道の十三峠の北側にある。13の塚は稜線上に列状をなし、最高所に中央の王塚がひときわ大きく築かれている。王塚は、神武天皇の皇后の御陵で小塚は殉死者の塚であると伝えられ、塚に触れると崇りがあり、塚に雨乞いをし、塚に祈ると災難や疾病が平癒するといわれる。王塚の裾には割石の石敷が設けられ、側に「十三塚」と陰刻した仏像がある。
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詳細解説
我が国の各地には塚に対して特別の信仰を寄せる習俗がみられる。十三塚もその一つで、13基の塚が並んでいるものに対して命名されたものである。明治末年に民俗学者、柳田国男は「十三塚」の研究に先鞭をつけ、後に著書『十三塚考』を著わした。それ以来、十三塚は民俗学の主要な研究のテーマの一つであった。 全国各地に所在する十三塚の数は、200~300か所にのぼるとされていたが、開墾や土木工事によって破壊されたものも多く、その残存状況は近年まで不確定であった。 昭和57・58年度に神奈川大学日本常民文化研究所が全国の十三塚の現況調査を行ったところ、完存するものは10数か所に過ぎず、それらも今後の保存には憂慮すべきものがあると提言されている。 十三塚とは、13基の列塚に対して命名されたもので、13基の土盛の塚(稀に積石塚もある)からなる。低く小さい列塚のうち中央の塚が一段と大きく築造されている型式が多く、13人の武将や非業の死をとげた者を葬ったとする伝説を伴うものが多いが、築造の理由や時期については論議が交わされてきた。供養塚、境界指標、修法壇などの性格が指摘されているが、近年では、その名称を「十三仏塚」とするものもあることから、15~16世紀にかけて成立展開した十三仏信仰にともない築造されたとする説が有力である。 十三仏とは、不動・釈迦・文殊・普賢・地蔵・弥勒・薬師・観音・勢至・阿弥陀・阿閦【あしゆく】・大日・虚空蔵であり、初七日から三十三回忌までの忌日と結びつけて十三仏が配される。宗派的には、禅宗や真言宗で重んじられており、葬送の際には十三仏の掛軸をかけ、十三仏念仏を唱える習俗もある。 十三仏信仰の成立時期は、文献や石造遺物からして室町時代の15世紀初とみられ、16世紀にかけて、特に盛んであった模様である。十三塚の築造もこの十三仏信仰の流れの中に位置づけられるものとみられる。 生駒十三峠の十三塚は、大和国と河内国の国境、奈良県生駒郡平群町福貴畑2310番、同福貴畑2691番と大阪府八尾市神立994番にまたがって所在し、河内から大和の竜田法隆寺方面へ抜ける十三街道ないしは、十三越道【ごえみち】の十三峠の北側に接して南北に列なっている。 延宝7年(1679)編の『河内鑑名所記』に「十三峠、山の上に塚十三ありし故にいふとなり」とあり、貝原益軒が元禄16年(1703)に著わした『筑前国続風土記』にも「大和国立田越の山上にも十三塚あり、故に俗に立田越といはずして十三越といふ」と、十三峠や十三越の地名が十三塚に由来することを記している。 この十三塚は、13の塚が稜線上に南北に列状をなし、標高438㍍の最高所に中央の王塚が築かれている。この王塚は、神武天皇の皇后五十鈴媛命【いすずひめのみこと】の御陵で小塚は殉死者の塚であるとの伝説を伴い、塚に触れると崇りがあり、塚に雨乞いをし、塚に祈ると災難や疾病が平癒するといわれてきている。 この十三塚の規模は、直径3.07ないし6.25㍍、高さ0.54ないし1.46㍍の平面円形の盛土の列塚12基とその中央の直径6.65×6.5㍍、高さ1.4㍍の王塚1基とからなる。王塚は他の12基の列塚に比べてひときわ大きく築造されており、それが稜線の最高所にあるために一層堂々と見える。また、この王塚の裾の西側に一辺0.8×1.97㍍、長方形祭壇状の割石の石敷が設けられており、側には合掌する仏像の下に「十三塚」と陰刻した高さ1.28㍍ほどの標石がある。この標石の左右側面の銘記により嘉永3年(1850)大阪商人播磨屋太七と淀屋定助によって建立されたことが判明する。 この十三塚は、大和・河内の国境の稜線を越える街道の峠に接して築造されており、すでに江戸中期に広く知られた代表的な十三塚であり、保存状況も良好で、庶民信仰の様相を示すものとして重要である。