国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
鳥羽院庁下文〈天養二年七月九日/〉
ふりがな
:
とばいんのちょうくだしぶみ
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員数
:
1巻
種別
:
古文書
国
:
日本
時代
:
平安
年代
:
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
00169
枝番
:
00
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
1998.06.30(平成10.06.30)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
長野県
所在地
:
長野県立歴史館
保管施設の名称
:
長野県立歴史館
所有者名
:
長野県
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
天養二年(一一四五)、鳥羽法皇の院庁より御願寺である最勝寺領の信濃国小川庄公文等に宛てられた院庁下文で、平維綱の非法に対する同庄預所増證の訴えを認め、その権利を保証したものである。
本文書は、楮紙を料紙に用い、「院庁下」の書き出しで始まり、その下に「信濃國小川御庄公文等」と充所を記す。事書に次いで、本文は預所増證の解状を引用したうえで、判決の内容を伝え、「故下」の書止め文言がある。さらに、日下に主典代、奥上に別当以下の院司がそれぞれ位署を加える形式となっている。
文書中に引用される増證の解状によれば、増證は本来この庄園を相伝した領主で、これを鳥羽法皇の御願寺である最勝寺に寄進して自ら預所となっていたが、現地の運営を任せていた下司の清原家兼が敵対していた池田宗里という武士に殺害されてしまった。しかし、家兼の死後、平維綱が権利を主張して非法を行ったことが知られる。
預所の僧増證については明らかでないが、おそらくは戸隠神社神宮寺顕光寺の僧侶で、本文書は顕光寺に伝わったものが流出したのではないかと考えられている。小川庄に関しては、本文書に「小川御庄」とあるのが最も早い例で、『吾妻鏡』文治二年(一一八六)三月条の信濃国乃貢未済庄々注文に「上西門院領小河庄」と注記がある。また、戸隠神社旧蔵の大般若経の奥書にもその名がみえ、戸隠神社とのかかわりをうかがわせるものがある。当時、院庁下文の発給の対象となる事項は、院御領・御願寺領・女院領など院庁と特別の関係にあるものに限られており、小川庄が鳥羽法皇の御願寺である最勝寺の所領であった関係で、本文書が出されたものと思われる。
院庁下文の初見としては、永久二年(一一一四)十二月十三日白河院庁下文案(『河上神社文書』)が知られているが、正文としては、康治三年(一一四四)正月廿四日鳥羽院庁下文(『九条家文書』)が古いものに属し、本文書がこれに次いでいる。
本文書は、現存する院庁下文のなかで、早い時期に出された遺例の一つであり、かつ豊富な内容を有するなど、古文書学上に価値が高い。
なお本文書は、戦前より吉田れん氏所蔵文書として知られ、大正九年(一九二〇)には東京帝国大学史料編纂掛が史料採録を行っている。平成五年七月、故吉田能民氏の寄贈によって、本文書は長野県立歴史館の所蔵となった。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
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解説文
天養二年(一一四五)、鳥羽法皇の院庁より御願寺である最勝寺領の信濃国小川庄公文等に宛てられた院庁下文で、平維綱の非法に対する同庄預所増證の訴えを認め、その権利を保証したものである。 本文書は、楮紙を料紙に用い、「院庁下」の書き出しで始まり、その下に「信濃國小川御庄公文等」と充所を記す。事書に次いで、本文は預所増證の解状を引用したうえで、判決の内容を伝え、「故下」の書止め文言がある。さらに、日下に主典代、奥上に別当以下の院司がそれぞれ位署を加える形式となっている。 文書中に引用される増證の解状によれば、増證は本来この庄園を相伝した領主で、これを鳥羽法皇の御願寺である最勝寺に寄進して自ら預所となっていたが、現地の運営を任せていた下司の清原家兼が敵対していた池田宗里という武士に殺害されてしまった。しかし、家兼の死後、平維綱が権利を主張して非法を行ったことが知られる。 預所の僧増證については明らかでないが、おそらくは戸隠神社神宮寺顕光寺の僧侶で、本文書は顕光寺に伝わったものが流出したのではないかと考えられている。小川庄に関しては、本文書に「小川御庄」とあるのが最も早い例で、『吾妻鏡』文治二年(一一八六)三月条の信濃国乃貢未済庄々注文に「上西門院領小河庄」と注記がある。また、戸隠神社旧蔵の大般若経の奥書にもその名がみえ、戸隠神社とのかかわりをうかがわせるものがある。当時、院庁下文の発給の対象となる事項は、院御領・御願寺領・女院領など院庁と特別の関係にあるものに限られており、小川庄が鳥羽法皇の御願寺である最勝寺の所領であった関係で、本文書が出されたものと思われる。 院庁下文の初見としては、永久二年(一一一四)十二月十三日白河院庁下文案(『河上神社文書』)が知られているが、正文としては、康治三年(一一四四)正月廿四日鳥羽院庁下文(『九条家文書』)が古いものに属し、本文書がこれに次いでいる。 本文書は、現存する院庁下文のなかで、早い時期に出された遺例の一つであり、かつ豊富な内容を有するなど、古文書学上に価値が高い。 なお本文書は、戦前より吉田れん氏所蔵文書として知られ、大正九年(一九二〇)には東京帝国大学史料編纂掛が史料採録を行っている。平成五年七月、故吉田能民氏の寄贈によって、本文書は長野県立歴史館の所蔵となった。