国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財
主情報
名称
:
神原八幡宮の取り追う祭
ふりがな
:
かみのはらはちまんぐうのとりおうまつり
神原八幡宮の取り追う祭
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種別1
:
風俗慣習
種別2
:
祭礼(信仰)
その他参考となるべき事項
:
公開日:毎年12月最初の卯の日の前日(※選択当時・お出掛けの際は該当する市町村教育委員会などにご確認ください)
選択番号
:
選択年月日
:
2009.03.11(平成21.03.11)
追加年月日
:
選択基準1
:
(一)由来、内容等において我が国民の基盤的な生活文化の特色を示すもので典型的なもの
選択基準2
:
選択基準3
:
所在都道府県
:
佐賀県
所在地
:
保護団体名
:
大里区
神原八幡宮の取り追う祭
解説文:
詳細解説
この行事は、伊万里市二里町大里の神原八幡宮に伝承され、地区の男性たちが攻め手と守り手に分かれ、新米で作った神饌を激しく奪い合い、五穀豊穣と無病息災を祈願する祭りである。(※解説は選択当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
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神原八幡宮の取り追う祭
神原八幡宮の取り追う祭
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神原八幡宮の取り追う祭
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神原八幡宮の取り追う祭
解説文
この行事は、伊万里市二里町大里の神原八幡宮に伝承され、地区の男性たちが攻め手と守り手に分かれ、新米で作った神饌を激しく奪い合い、五穀豊穣と無病息災を祈願する祭りである。(※解説は選択当時のものをもとにしています)
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詳細解説
神原八幡宮の取り追う祭は、伊万里市二里町大里の神原八幡宮に伝承され、地区の男性たちが攻め手と守り手に分かれ、新米で作った神饌を激しく奪い合い、五穀豊穣と無病息災を祈願する祭りである。 伊万里市二里町は、佐賀県の北西部、国見山と腰岳の谷間に位置する。取り追う祭が伝承されている大里地区は、有田川の河口に発達し、稲作やダイコン栽培などの農業を営んできた地域で、カミ(上)とシモ(下)の2つの集落に分かれる。神原八幡宮は、このうちのカミの氏神で、国常立尊、応神天皇、天照大神を祭神として祀る。取り追う祭も、このカミに属する 家々によって伝承されてきた祭りであるが、昭和52年にシモの氏神である熊野神社が八幡宮に合祀されて以降は、大里地区全体の行事となって現在に至っている。 この祭は、伝承によれば、南北朝時代に足利尊氏に敗れた菊池武重が神原八幡宮の宮司になり、この地でひそかに再興を期して火中訓練を行ったのが始まりとされる。期日は、12月最初の卯の日の前日で、『八幡神社御由緒沿革』(年代不詳)には、「毎年十二月初卯ノ日ハ初卯八幡宮神事トシテ古来有名ナル冬季ノ例祭ニシテ、其ノ前夜ハ「取り追ヒ」トスル古例ノ祭事アリ」との記述があり、八幡宮の本宮(本祭)の前夜に行われる宵宮(宵祭)の行事が取り追う祭であったと考えられている。ただし、本宮はすでに伝承が途絶えており、現在は取り追う祭が八幡宮最大の行事として行われている。 また、「取り追う」という名称については、敵の城や兵を「取り追い払う」ことや、神饌を「取り追う」「取り合う」ことに由来するなどの諸説がある。 祭りの準備や執行は、シメモトと呼ばれる当番地区を決めて行われる。シメモトは、カミの11の班が1年交替の輪番制で担当する。さらにその年のシメモトの中から、神饌づくりなどの場所となる会所と呼ばれる家が1軒選ばれる。また、守り手は当番地区の男性たちがつとめ、攻め手はそれ以外の地区の男性たちがつとめる。 準備作業は、11月中旬の松明づくりから始まる。松明は、前年の正月に伐って十分に乾燥させた竹を束ねたもので、八幡宮の境内で、長さ約4㍍の大松明を3本、長さ約2.5㍍の小松明を30本作って祭りに備える。その後、祭り前日に、神ノ木地区にある神さん川と呼ばれる涌水池で、神饌の材料となる糯米1斗を洗うとともに、祭りの期間中に使用する水を汲んで会所に運んでおく。 祭りの当日は、午後からシメモトの人達が会所に集まり、糯米を蒸すなど神饌作りに取り掛かる。神饌は、ゴクウサン(御供さん)と呼ばれ、糯米を小さく握って丸くしたものを833個用意する。男性たちは、会所の座敷に並び、榊の葉を口にくわえ、蒸し上がった糯米を無言で握る。出来上がったゴクウサンは、テボと呼ばれる大きな竹籠に入れ、蓋を縄で頑丈に縛っておく。 その後、夜になると、守り手の男性たちが会所の庭で3本の大松明に火を点けて担ぎ、テボを担ぐ者を守りながら八幡宮へ向かう。攻め手の男性たちは、大里公民館に待機しており、遠くに松明の明かりを確認すると八幡宮へ向けて出発する。両者は、八幡宮の第一の鳥居前で鉢合わせ、小競り合いとなるが、守り手は急いで第二の鳥居をくぐり、石段を駈け登って高台にある拝殿に上がり、神前に神饌を供えると、神職による祭事がはじまる。その間、攻め手は拝殿前で待機し、祭事が終わると石段の途中で冷水を浴びて禊ぎをする。そして、攻め手は榊の枝を持って境内に駈け降り、次いで、守り手と神饌の入ったテボが境内に移動し、激しい攻防は始まる。 八幡宮の境内には祭事場と呼ばれる臨時の施設があり、その中に置かれたテボを目がけ、攻め手は「打ちゃえんか」(打つことができないのか)の掛け声とともに押し寄せ、守り手は「押しゃえんか」(押すことができないのか)と松明を激しく打ちつけ、火の粉を攻め手に浴びせる。こうしてテボの奪い合いがしばらく続き、境内は火の海のようになるが、最終的に攻め手が降りかかる火の粉を榊の枝で払いながらテボを奪って蓋を開け、ゴクウサンを境内に集まった氏子や観衆に配る。人々は無病息災を祈ってゴクウサンを食べ、祭りは終了となる。 神饌の形態や扱いは、日本の祭りを考える上で重要であるが、本件は、神饌の争奪とそれを氏子が分け合って食することに行事の主旨があり、神饌の共食儀礼に火祭りの要素や競技的な性格が加わり、現行の形態に展開してきたと考えられるもので、類例の少ない地域的特色の豊かな祭りとして注目される。 また、神饌についても、厳格な作法を守って作られており、争奪に伴って新米で作った神饌を激しく揺さぶる行為は、穀霊の再生や強化の信仰を窺わせ、我が国の民間信仰や祭りの変遷を考える上で貴重であることから、早急に記録を作成する必要がある。 (※解説は選択当時のものをもとにしています)