国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
烏帽子形城跡
ふりがな
:
えぼしがたじょうあと
烏帽子形城跡
写真一覧▶
地図表示▶
詳細解説表示▶
種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
年代
:
西暦
:
面積
:
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
特別区分
:
指定年月日
:
2012.01.24(平成24.01.24)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
大阪府
所在地(市区町村)
:
大阪府河内長野市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
市、個人
所有者名
:
河内長野市、個人
管理団体・管理責任者名
:
烏帽子形城跡
解説文:
詳細解説
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
添付ファイル
なし
写真一覧
烏帽子形城跡
城跡曲輪
城堀跡
出土土器・陶磁器
写真一覧
烏帽子形城跡
写真一覧
城跡曲輪
写真一覧
城堀跡
写真一覧
出土土器・陶磁器
Loading
Zeom Level
Zoom Mode
詳細解説
烏帽子形城跡は,大阪府河内長野市の市街地の南,石(いし)川と天見(あまみ)川の合流点のすぐ南の標高約180mの丘陵尾根部に所在する中世の城跡である。城跡の東麓には京・堺と紀伊とを結ぶ高野(こうや)街道が走るなど交通の要衝に位置する。 河内(かわち)守護職(しゅごしき)畠山氏の城の一つであったが,応仁の乱前後から織豊期(しょくほうき)まで諸勢力による戦いの場となった。応仁の乱の契機となった河内守護職畠山氏の分裂抗争において,文正(ぶんしょう)元年(1466)に「押子形城(おしこがたじょう)」として初めて文献に登場する。応仁の乱後も分裂した畠山氏の抗争は続き,大永(だいえい)4年(1524)には,再び合戦の舞台の一つとなり,その後,新興勢力の三好(みよし)氏勢と畠山氏勢が合戦を繰り返す場となった。天正(てんしょう)12年(1584)には,羽柴秀吉が根来寺(ねごろじ)攻略の拠点として修復している。 城の規模は,南北約140m,東西約160mであり,丘陵頂部に主郭(しゅかく)となる曲輪(くるわ)が位置し,これを土塁と堀で囲む構造である。堀底からは障壁遺構も見つかった。 中世から近世初頭にかけての畿内の政治・軍事の歴史を理解する上で貴重である。
関連情報
指定等後に行った措置
関連情報
指定等後に行った措置
異動年月日
:
異動種別1
:
異動種別2
:
異動種別3
:
異動内容
: