国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
中城ハンタ道
ふりがな
:
なかぐすくはんたみち
中城ハンタ道(石敷きの道路)
写真一覧▶
解説表示▶
種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
14世紀後半~17世紀後半
年代
:
西暦
:
面積
:
21246.71 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
38
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2015.03.10(平成27.03.10)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県
:
沖縄県
所在地(市区町村)
:
沖縄県中頭郡中城村
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
中城ハンタ道(石敷きの道路)
解説文:
詳細解説
ハンタ道は,首里を起点として西原間切(にしはらまぎり)の幸地(こうち)グスクを通り沖縄本島の東側を北上し,中城間切の新垣(あらかき)グスク・中城城を経て,勝連間(かつれんま)切(ぎり)の勝連城に至る琉球王府時代の街道で,首里・中城(なかぐすく)・勝連(かつれん)の各城を結ぶ最短ルートである。「ハンタ道」とは崖沿いの道の意味である。中城城の主要部が築かれた14世紀後半までに整備されたものと考えられ,15世紀後半以降は中頭方(なかがみほう)東海道(とうかいどう)の道筋となり,間切(まぎり)間を結ぶ宿次(しゅくつぎ)の道(宿道(しゅくみち))として機能した。その後,17世紀後半以降,宿道としての機能を終え,それ以後は地域の集落や間切をつなぐ生活道として利用された。1853年には,米国ペリー艦隊の探検隊がハンタ道を使用している。今回,中城村教育委員会が実施した歴史の道整備事業の成果に基づき,新垣地区と伊舎堂(いしゃどう)地区のハンタ道及び関連遺跡の保存を図る。新垣地区では,約330m分の道が良好に残り,15世紀頃と近世の二時期の石敷きも見つかった。沿道には集落遺跡,集落を守る新垣グスク,ペリー探検隊が休息した地点が残る。また,伊舎堂(いしゃどう)地区では,約250m分の道が良好に残るほか,神事を司ったノロの添石(そえいし)ヌンドゥンチの墓も所在する。このように,中城ハンタ道は,14世紀後半頃には整備され,首里から中城城を経て勝連城までを結ぶ主要道として,また15世紀後半以降は中頭方東海道として機能した道であり,往時を偲ぶ道路が良好に残存し,沿道には関連遺跡も残っている。琉球における交通の歴史を理解する上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
中城ハンタ道(石敷きの道路)
中城ハンタ道(ペリーの旗立岩)
中城ハンタ道(ノロの墓)
写真一覧
中城ハンタ道(石敷きの道路)
写真一覧
中城ハンタ道(ペリーの旗立岩)
写真一覧
中城ハンタ道(ノロの墓)
解説文
ハンタ道は,首里を起点として西原間切(にしはらまぎり)の幸地(こうち)グスクを通り沖縄本島の東側を北上し,中城間切の新垣(あらかき)グスク・中城城を経て,勝連間(かつれんま)切(ぎり)の勝連城に至る琉球王府時代の街道で,首里・中城(なかぐすく)・勝連(かつれん)の各城を結ぶ最短ルートである。「ハンタ道」とは崖沿いの道の意味である。中城城の主要部が築かれた14世紀後半までに整備されたものと考えられ,15世紀後半以降は中頭方(なかがみほう)東海道(とうかいどう)の道筋となり,間切(まぎり)間を結ぶ宿次(しゅくつぎ)の道(宿道(しゅくみち))として機能した。その後,17世紀後半以降,宿道としての機能を終え,それ以後は地域の集落や間切をつなぐ生活道として利用された。1853年には,米国ペリー艦隊の探検隊がハンタ道を使用している。今回,中城村教育委員会が実施した歴史の道整備事業の成果に基づき,新垣地区と伊舎堂(いしゃどう)地区のハンタ道及び関連遺跡の保存を図る。新垣地区では,約330m分の道が良好に残り,15世紀頃と近世の二時期の石敷きも見つかった。沿道には集落遺跡,集落を守る新垣グスク,ペリー探検隊が休息した地点が残る。また,伊舎堂(いしゃどう)地区では,約250m分の道が良好に残るほか,神事を司ったノロの添石(そえいし)ヌンドゥンチの墓も所在する。このように,中城ハンタ道は,14世紀後半頃には整備され,首里から中城城を経て勝連城までを結ぶ主要道として,また15世紀後半以降は中頭方東海道として機能した道であり,往時を偲ぶ道路が良好に残存し,沿道には関連遺跡も残っている。琉球における交通の歴史を理解する上で重要である。
詳細解説▶
詳細解説
中城ハンタ道は、琉球王府(りゅうきゅうおうふ)時代、首里(しゅり)から中城を経て勝連(かつれん)に至る交通の動脈として機能したハンタ道の一部である。道は、標高100~160mの丘陵上の縁辺部を通過し、おおむね太平洋を眺望することが可能な立地である。 ハンタ道は、首里を起点として西原間切(にしはらまぎり)の幸地(こうち)城を通り沖縄本島の東側を北上し、中城間切の新垣(あらかき)城・中城城を経て、勝連間切の勝連城に至る道筋で、首里・中城・勝連の各城を結ぶ最短ルートである。「ハンタ道」とは崖沿いの道の意味である。街道整備の時期は明確ではないが、中城城の主要部が築かれた14世紀後半までには、首里城と中城城を経て勝連城までを結ぶ主要道として整備されたものと考えられている。15世紀中頃の尚泰久時代、中城城や勝連城で繰り広げられた護佐丸(ごさまる)・阿麻和利(あまわり)の乱では、王府や勝連の軍勢がこの道を往来する等、琉球史の抗争の舞台ともなったとされている。また、15世紀後半代以降の第二尚氏時代に首里を中心とした王命や物資を伝達する道路網の整備が行われる一環として、首里から中城を経て、越来(ごえく)間切、金武(きん)間切に向かう中頭方(なかがみほう)東海道(とうかいどう)の道筋となり、間切と間切を結ぶ宿次(しゅくつぎ)の道(宿道(しゅくみち))としても機能した。17世紀中頃の道筋の様子は、『正保三年琉球国絵図』(国宝島津家文書、東京大学史料編纂所蔵)に描かれている。しかし、1671年に宜野湾(ぎのわん)間切が新設されると、中頭方東海道は西原間切から新設の宜野湾間切を経由するようになり、中城ハンタ道は宿道としての機能を終え、それ以後は地域の集落や間切をつなぐ生活道として利用された。1853年には、米国ペリー艦隊が沖縄島の調査のため探検隊を出し、ハンタ道を使って首里から中城間切を通って北上した。 今回、中城村教育委員会が平成14年度から平成25年度まで実施した歴史の道整備事業の成果に基づき、新垣地区と伊舎堂(いしゃどう)地区に所在するハンタ道及び関連遺跡の保存を図る。新垣地区には、約330m分の道が良好に残る。発掘調査の結果、15世紀頃と近世の二時期の石敷きが見つかった。近世の道では幅員1.8から2.4m、路面には比較的小形の不定形の石材を敷き、縁石は大形の石材を使用している。道沿いには14世紀から近代にかけての集落跡(新垣上原遺跡)、集落の井戸であるミージャーガー、集落を守る機能をもち、14世紀から16世紀前半の時期とされる新垣城跡がある。また、新垣集落からやや離れた道沿いには、ペリー探検隊が休息し、旗を立てたターチイシーやターチャーイシと呼ばれる高さ約15mの琉球石灰岩の岩塊が現存する。 伊舎堂地区は史跡中城城跡に近接し、約250m分の道が良好に残っている。道の北側斜面部に、中城城や新垣集落で神事を司ったノロ、添石(そえいし)ヌンドゥンチの墓がある。琉球石灰岩の崖面を掘り込み正面に切石を積んだ近世の破風墓(はふうばか)である。 このように、中城ハンタ道は、14世紀後半頃には整備され、首里から中城城を経て勝連城までを結ぶ主要道として、また中頭方東海道として機能した道であり、往時を偲ぶ道路が良好に残存し、沿道には関連遺跡も残っている。琉球における交通・土木の歴史を理解する上で重要なことから、史跡に指定してその保護を図るものである。