国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
瓦塚窯跡
ふりがな
:
かわらつかかまあと
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解説表示▶
種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
飛鳥~平安
年代
:
西暦
:
面積
:
14858.95 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
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特別区分
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指定年月日
:
2017.10.13(平成29.10.13)
特別指定年月日
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追加年月日
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指定基準
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六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県
:
茨城県
所在地(市区町村)
:
茨城県石岡市
保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
7世紀前葉から10世紀前葉に営まれた窯跡。南北130m,東西80mの範囲に35基もの窯が築かれた。古代常陸国における瓦生産の導入過程から,常陸国府・常陸国分寺の造瓦体制の確立及び終焉までを一遺跡で知ることができる点で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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解説文
7世紀前葉から10世紀前葉に営まれた窯跡。南北130m,東西80mの範囲に35基もの窯が築かれた。古代常陸国における瓦生産の導入過程から,常陸国府・常陸国分寺の造瓦体制の確立及び終焉までを一遺跡で知ることができる点で重要である。
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詳細解説
瓦塚窯跡は茨城県石岡市にある高芝山の中腹、標高60mの南西斜面に位置する古代の瓦窯跡で、古代の茨城郡(いばらきぐん)に属する。遺跡の眼前には「瓦会街道(かわらえかいどう)」という特別史跡常陸国分尼寺跡に通ずる道路があり、地元にはかつてこの道で瓦を運んだという言い伝えがある。南側には恋瀬川の支流があり、恋瀬川を下ると史跡常陸国府跡に至る。 瓦塚窯跡は昭和12年に茨城県指定文化財(史跡)となっている。その後、昭和43年に八郷町教育委員会が発掘調査を行い、合計7基の窯跡の存在が想定されるとともに2基の窯跡が調査され、瓦窯が長さ3.5m程の有段式の窖(あな)窯(がま)と判明した。昭和59年には測量調査の結果、全体で23基の窯跡が存在するとされている。平成17年には瓦塚保存会を中心とした地元住民からの保存整備の要望が上がったことを受け、平成19年度より石岡市教育委員会が磁気探査と微地形測量及び発掘調査を実施して窯構造の把握を行い、7世紀前葉から10世紀前葉に及ぶ窯跡の変遷を確認した。窯跡には天井部が残るものも多く、遺存状態は極めて良好である。 7世紀前葉から中葉には1基の須恵器窯が築かれた。窯長は10mを超える無段式の地下式窖窯である。常陸国においては須恵器の生産が開始されるのが7世紀の前葉であり、当窯跡も須恵器生産の開始期の窯といえる。8世紀前葉にも1基の瓦陶兼業窯(がとうけんぎょうよう)が築かれ、茨城廃寺(ばらきはいじ)等に瓦を供給する。同時期には1号竪穴建物も併存している。 8世紀中葉の古い段階には有段式の窖窯と、平窯を含む3基の瓦陶兼業窯が築かれる。須恵器は盤の高台が低くて厚みのあるものからやや高く薄いものへと変化し、瓦には新たに一枚作りで平城京系の文様をもつ軒瓦・平瓦が加わる。このうち軒平瓦は大安寺にその祖形が求められる。この新型式の軒瓦のうち最初期のものは、常陸国府・茨城廃寺等には供給されているが、現時点では常陸国分寺跡からは出土しておらず、常陸国分寺創建前に瓦笵(がはん)がもたらされたと思われる。8世紀中葉でも新しい段階には窖窯の瓦窯1基に竪形(たてがた)の製鉄炉が伴う。瓦窯と製鉄炉の組み合わせは常陸国府周辺では柏崎(かしわざき)窯跡や金子澤(かねこざわ)瓦窯跡でも確認されている。奈良時代に確実に遡る竪形炉としては茨城県内では初の検出である。この時期は常陸国分寺の創建期にあたる。その瓦生産は同じく茨城郡内の松山瓦窯跡が中心的に担っており、瓦塚窯跡はその補助的な位置づけであった。 8世紀後葉以降は瓦専業窯となる。8世紀後葉には7基の瓦窯が築かれた。この時期には平窯(ひらがま)に近い窯もあるが、瓦塚窯跡には有畦式(ゆうけいしき)平窯は導入されず、10世紀の操業終了まで有段式・無段式の窖窯が継続する。窯は2基1対で操業されたと想定されている。出土瓦からみて、瓦塚窯跡が常陸国府の瓦生産の中心的瓦窯となっていく時期と考えられる。 9世紀には瓦塚窯跡に生産が一元化され、前葉・中葉・後葉にそれぞれ4基の瓦窯が同規模で間断なく築かれた。常陸国府のほか、行方郡(なめがたぐん)の井上廃寺跡(いのうえはいじあと)や信太郡(しだぐん)の下君山廃寺跡(しもきみやまはいじあと)等、茨城郡外も含めたその他の寺院への供給や、常陸国分寺の修復のため、安定した操業が行われていたことが分かる。10世紀前葉には10基の瓦窯が築かれた。全体的に規模が小さいが、配置から見て複数基で一つの単位をなして操業したとみられるものがあるため、比較的短期間ごとに作りかえられたと推定されている。常陸国分寺が維持管理をされていた最後の時期であり、これ以後、瓦塚窯跡での瓦生産は終焉を迎える。 以上から、瓦塚窯跡は7世紀前葉から中葉に須恵器窯として操業が始まり、8世紀前葉には須恵器とともに茨城廃寺の瓦を生産することから茨城郡の郡司層が操業主体となった可能性が考えられる。8世紀中葉になると瓦専業窯となって瓦生産の画期を迎え、9世紀以降は国府窯が瓦塚窯跡に一元化されて、茨城郡外の寺院にも瓦の安定的な供給を開始する背景には、常陸国衙の関与が想定できる。また、こうして長期間常陸国の中心的窯場として機能したことで、34基の瓦窯が密集して築かれることとなった。この窯の基数は武蔵国分寺創建期の窯跡である新沼(しんぬま)瓦窯跡(埼玉県)の26基や藤原宮所用瓦を供給した宗吉(むねよし)瓦窯跡(香川県)の24基を超え、一か所に集中的に営まれる瓦窯として全国的にも最大級と評価できる。 このように、瓦塚窯跡は、古代常陸国における瓦生産の導入過程から、常陸国府や常陸国分寺の造瓦体制の確立及び終焉までを一遺跡で知ることができる点で重要であるとともに、一瓦窯としての窯の基数や密度が突出し、遺存状態も極めて良好であることから、史跡に指定し保護を図ろうとするものである。