国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
御所野遺跡
ふりがな
:
ごしょのいせき
御所野空撮
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
年代
:
西暦
:
面積
:
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
151
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
1993.12.21(平成5.12.21)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
2014.03.18(平成26.03.18)
指定基準
:
一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
所在都道府県
:
岩手県
所在地(市区町村)
:
二戸郡一戸町
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
御所野空撮
解説文:
詳細解説
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
添付ファイル
なし
写真一覧
御所野空撮
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御所野空撮
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詳細解説
御所野遺跡は、岩手県北西部の内陸山間部の一戸町に所在する。この地域をぬうように北に流れる馬淵川の右岸に位置し、標高約一九〇〜二〇〇メートルの中位段丘上に立地する。広い所で幅一二〇メートルほどの平坦な台地が、東から北へ弧状に五〇〇メートルほど続き、台地上の平坦面は約六ヘクタールの広がりをもつ。周囲にはケヤキやブナの林が茂り、クリ・アケビなどが実り、縄文時代を彷彿させる豊かな自然環境が残っている。 ここに一戸町の農工団地造成が計画され、平成元年に町教育委員会によって事前調査が開始された。その結果、遺跡の重要性が認識され、翌年度から平成四年度まで保存を前提に遺跡の広がりや内容を確認するための調査が実施された。 本遺跡は、縄文時代中期後半に営まれた大規模な集落が中心となる。その後も奈良時代から平安時代の初頭には終末期古墳が構築されている。古墳の墳丘はすでに失われているが、いずれも馬蹄形の周溝をもち、外径で八〜九メートルの規模をもつ。合計二〇基が確認できた。さらに平安時代後期の集落が東側と西側の地域に営まれ、竪穴住居と土抗・溝などが検出されている。また中世には台地の西側が城館として利用されたらしく、竪穴遺構が発見されている。このように縄文時代以後も継続的に台地が利用されていた。 縄文時代中期半ばの円筒上層d・e式あるいは大木8a式土器が用いられた時期に、この台地上の東側・中央・西側の三地点で人々の居住が始まる。次の大木8b式期になると、中央地点に環状配石遺構群とよぶべきものや盛土遺構が新たに構築され、集落は盛期を迎える。その後、三地点とも中期末まで多数の住居跡などが継続して営まれた。各地点とも、竪穴住居跡は径二〜三メートルの小型から一〇メートルを越す大型のものまであり、集落全体で最終的に五〇〇棟以上の竪穴住居が営まれたと推定できる。 環状配石遺構群は、広く削平した中央地点の北部に東西八〇メートル、南北五〇メートルの範囲の中に東西二基並べられていた。いずれも中央に広場を擁し、順に墓穴と配石群、掘立柱建物群が取り巻き、それぞれの規模は東側が長径約五〇メートル、西側が約四〇メートルの楕円形となっている。下層まで確認調査を実施した東側のものは、中央に長径十数メートルの楕円形の広場をもつ。墓穴は長径一メートルほどの小判形のもので、それらが二〇基ほどずつ群をなして一〇か所ほどにまとまって分布していると考えられる。墓穴群の上には同じく一〇か所ほどの配石が構築されている。配石の型式は、径二×一メートルほどの楕円形に人頭大の石を組み長軸の一端あるいは両端に立石をもつもの、縁を敲打した長方形板石に赤色顔料を塗布して立石とし根元に小型の河原石を配したもの、長径五〜二メートルほどの楕円形サークル状のものなどがある。安山岩を用いることが多く、チャート、花崗岩、砂岩も用いられてる。掘立柱建物群も部分的にしか確認されていないが、中央広場に建物の軸を向け、二間×一間で桁行の長さ五メートルを基本とするらしい。 二基の環状配石遺構群の南には、盛土遺構が弧状に囲む。それは、環状配石遺構群などを造成した時の排土を厚さ三〇〜五〇センチメートルほどに積み重ねたもので、幅二〇メートルで長さ六〇メートルはど弧状に延びる。なかには多数の屋外炉が介在し、各種の土器・石器、土製品・石製品、人体レリーフ付き土器片、コハク、焼けた獣骨や植物種子など多量な遺物が含まれている。土器は、当初東北地方北部の円筒時文化の影響を強く受けたものであるが、集落が整備された中期後葉には東北地方南部に分布していた大木8b式土器が主体になっている。円筒時文化と大木土器文化圏の接触地帯であった当地域における集団の文化的変化の様相を示している。さらにその南にそって中央地点の竪穴住居群が配置されている。 環状配石遺構群と盛土遺構は、本遺跡で最も中枢を占める台地中央部の幅の広い平坦地に営まれ、その設置のために大規模な土木工事が実施された。また盛土遺構には膨大な遺物が持ち込まれ、火がたかれ、木の実や獣骨が焼かれ、祭祀が行われた可能性がある。これらは中央地点の重要性を示し、縄文時代中期後半の集団にとって送葬儀礼や、祭祀が重要であったことを表している。さらに二基の環状配石遺構群が並列して配置され、集団が中央地点と東西の三か所に別れて居住した集落の構造は、円筒と大木土器文化圏の接触地帯における双分制など集団構成の原理を具体的に明らかにしうる可能性をも示す。 このように本遺跡は、極めて豊かな情報をもち、縄文時代の我が国の歴史を明らかにする上で重要である。よって史跡に指定し保存を図るものである。
関連情報
指定等後に行った措置
2006.07.28(平成18.07.28)
2014.03.18(平成26.03.18)
関連情報
指定等後に行った措置
異動年月日
:
2006.07.28(平成18.07.28)
異動種別1
:
追加指定
異動種別2
:
異動種別3
:
異動内容
:
関連情報
指定等後に行った措置
異動年月日
:
2014.03.18(平成26.03.18)
異動種別1
:
追加指定
異動種別2
:
異動種別3
:
異動内容
: