国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
世界遺産
主情報
名称
:
白川郷・五箇山の合掌造り集落
ふりがな
:
しらかわごう・ごかやまのがっしょうづくりしゅうらく
構成資産
:
白川村荻町、平村相倉、上平村菅沼
登録基準1
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登録基準2
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登録基準3
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登録基準4
:
「白川郷・五箇山の合掌造り集落」は、その環境及び社会経済状況に申し分なく適合した伝統的な居住地の顕著な事例である。
登録基準5
:
これらの集落では、その社会構造が物理的にも反映されており、1950年以降に日本で経済状況が急激に変化したにもかかわらず、それらが残されてきたことは極めて重要である。その結果、3つの集落は、その長い歴史における精神的・物的証拠を保存している。
登録基準6
:
所在都道府県
:
2県以上
所在地(市区町村)
:
岐阜県大野郡白川村 富山県南砺市
解説文:
詳細解説
白川郷の集落は大型の木造民家群から構成されています。茅葺きの合掌づくりの大きな屋根の下は3~5階からなり、1階は広い居室空間、2階以上は屋根裏部屋の寝室あるいは作業空間となっています。1棟には数十人からなる大家族が住むのが一般的でした。
この種の18・19世紀の民家約50棟が集中して残る荻町地域は、山間の田畑のなかに位置し、周囲を広葉樹林が囲み、民家は中央の谷筋の方向に平行して棟を並べ、急勾配の茅葺屋根とあいまって、独特の集落景観を構成しています。
白川郷は本州のほぼ中央の山間部にあります。この地は17世紀末期から江戸幕府の直轄支配下にあり、住民の多くは農耕のほかに山林樹木の伐採・搬出や養蚕を生業としていました。民家内の屋根裏部屋では、養蚕の作業なども行なわれていました。
また、「結」と呼ばれる住民の相互扶助組織があり、屋根の蓑き替えなどの家屋維持を共同して行なう慣習が残る点も興味深いものです。居住と作業のための大規模な空間をもち、大家族が暮した民家の連なる白川集落は、世界的にもユニークな景観を成しています。
構成資産
上平村菅沼
━
史跡名勝天然記念物
越中五箇山菅沼集落
━
重要伝統的建造物群保存地区
南砺市菅沼
白川村荻町
━
重要伝統的建造物群保存地区
白川村荻町
平村相倉
━
史跡名勝天然記念物
越中五箇山相倉集落
━
重要伝統的建造物群保存地区
南砺市相倉
解説文
白川郷の集落は大型の木造民家群から構成されています。茅葺きの合掌づくりの大きな屋根の下は3~5階からなり、1階は広い居室空間、2階以上は屋根裏部屋の寝室あるいは作業空間となっています。1棟には数十人からなる大家族が住むのが一般的でした。 この種の18・19世紀の民家約50棟が集中して残る荻町地域は、山間の田畑のなかに位置し、周囲を広葉樹林が囲み、民家は中央の谷筋の方向に平行して棟を並べ、急勾配の茅葺屋根とあいまって、独特の集落景観を構成しています。 白川郷は本州のほぼ中央の山間部にあります。この地は17世紀末期から江戸幕府の直轄支配下にあり、住民の多くは農耕のほかに山林樹木の伐採・搬出や養蚕を生業としていました。民家内の屋根裏部屋では、養蚕の作業なども行なわれていました。 また、「結」と呼ばれる住民の相互扶助組織があり、屋根の蓑き替えなどの家屋維持を共同して行なう慣習が残る点も興味深いものです。居住と作業のための大規模な空間をもち、大家族が暮した民家の連なる白川集落は、世界的にもユニークな景観を成しています。
詳細解説▶
詳細解説
3集落は、白川郷と五箇山地方に所在する。この地方は、日本の代表的な高山の1つである白山(白い山の意味。1年のうち半年以上が雪に覆われ、また、その姿が美しいのでこの名がつけられた。休火山:標高2702m)を中心とする深い山岳地帯であり、しかも、日本有数の豪雪地帯である。1950年代まではこの地域の集落と地域外との交渉は極めて限られ、そのために合掌造り家屋によって特色づけられる独特の文化が形成され、継承されてきた。 白川郷と五箇山地方は、8世紀頃から始まった白山を信仰の対象とする山岳信仰の修験の行場として開かれ、長い間、仏教の一宗派である天台宗教団の影響下にあった。13世紀中期以降になると、仏教の一宗派である浄土真宗がこの地域に浸透し、各集落に寺や道場(布教所)が設けられた。現在でも、この地域の人々の多くは浄土真宗の信仰に篤く、寺や道場を中心として行われる各種の宗教行事は伝統に則って行われていて、地域社会の強い精神的結びつきの拠り所となっている。 「白川郷」の地域名が文献で初めて確認されるのは12世紀中期であり、「荻町」の集落名は15世紀後期、「五箇山」は16世紀初頭、「相倉」は16世紀中期、「菅沼」は17世紀前期であり、これ以前にそれぞれの集落が成立していたことがわかる。 白川郷は江戸時代の初めは高山藩領であったが、17世紀末以降、明治維新に至るまで江戸幕府の直轄領であった。五箇山は江戸時代を通じて金沢藩(加賀藩)領であった。明治時代になると、白川郷の41集落のうちの23集落が岐阜県白川村に属することになり、荻町集落も白川村の一部となった。また、五箇山の70集落のうちの25集落が富山県平村、19集落が上平村に属して、相倉、菅沼の各集落もそれぞれの村の一部となり、近代的な行政組織に組み込まれて現在に至っている。 江戸時代の検地帳などの史料によると、白川郷と五箇山地方では、平坦地の少ない山間地のために稲作は少なく、わずかな畑地と焼き畑で稗や粟、そばなどが栽培され、食糧の自給がほそぼそと行われていた程度の農業であったことが知られる。また、山林からの収穫も木の実、きのこ、山菜類などが主であり、また、炭や薪、蝋、漆などの生産や採取も行われていたが、この地方の家々の生活を豊かにするほどのものではなかった。この貧弱な農業生産に代わる地域の主要な産品は、和紙と塩硝と養蚕てあった。 和紙は山林に自生する楮が原料であり、この採取および和紙とするための皮剥きや晒し、紙漉きなどの加工には多くの時間と労力を必要とした。したがって、主要な農産物がなく、積雪期の長い山村の換金生業としては、条件にかなったものであったので、この地方では和紙の生産が盛んであった。この地方の和紙生産の始まりはあきらかではないが、江戸時代初期にはその記録がある。和紙生産は江戸時代を通じて行われていたが、明治時代初期に西洋から導入された機械による洋紙生産が始まると次第に衰退していった。 塩硝は火薬の原料であり、したがって重要な軍用物資であったため、それぞれの地域の支配者によって厳しく統制され、また、特別に庇護もされていた。白川郷と五箇山地方での塩硝の生産は、ヨモギ、アカソ、ムラタチなどの雑草を牛肥、下肥とともに土に混ぜ、3、4年かけて土壌分解させて、それを精製して硝酸カルシウムを抽出するものであった。この地方の塩硝生産は17世紀中期頃からであり、江戸時代を通じて行われていたが、明治時代になって西洋から安価な硝石が輸入されるようになると、公的な買い上げも停止され、その生産は行われなくなった。 塩硝生産には大量の雑草を採取するための多くの労力が必要であり、精製抽出は冬期に行うので、和紙生産と同様に、この地方の気候風土にかなったものであった。また、その生産を秘匿し、管理するために、この地方では家屋の床下の地面を深く掘り下げた穴の中で土壌分解を行っていたので、床面積の広い家屋を必要とし、このことが規模が大きく、床部分の多い合掌造り家屋を生みだす主要な要因の1つになったと推測されている。 蚕を育て、繭から生糸を紡ぐ養蚕と製糸の生産は、この地方では16世紀前期にはその記録が見られるが、本格化するのは17世紀末頃からである。その後、江戸時代を通して安定した生産が行われていたが、幕末から始まった外国との貿易による生糸と絹織物の輸出の増大に伴って、この地方の養蚕も急速に伸展し、最も重要な産業となった。これは明治時代になって衰退していく和紙と塩硝生産を補って余りあるものであった。この養蚕業は、太平洋戦争中の一時的な低迷期を経て、戦後の1970年頃まで続いていたが、現在では全く消滅してしまっている。養蚕もまた、桑の葉の採取や蚕の世話に多くの労力を必要とするものであった。山間部における養蚕は、桑の集積や蚕の飼育に屋内の広い空間を必要としたので、このことが小屋内の空間を多層とし、積極的に利用する合掌造り家屋の成立を促し、その発展に 大きく関わったといえる。 白川郷と五箇山地方の各集落には、近隣の家々で構成される「組」と呼ばれる江戸時代から続く生活上の互助組織があり、現在でも活動している。各「組」内では山道の草刈や水路の塵浚い、除雪、火災予防の夜回り、神社の出役などの、季節ごとの、あるいは日常の作業を共同で行い、または順番で当番を出して互いに助け合っている。また、冠婚葬祭や家屋の普請、茅葺き屋根の葺替え時などには「ユイ(結い)」や「コーリャク(合力)」と呼ばれる相互扶助の伝統的な慣習があるが、これも「組」を単位として行われている。 このような社会制度が生まれ、維持されてきたのは、厳しい自然条件下の、生産性の低い山間の土地で生きるためには、相互扶助が不可欠であったからであるが、その背景には同じ浄土真宗の信仰による精神的な強い結びつきがあったことも指摘されなければならない。 なお、白川郷と五箇山地方のいくつかの集落では、かっては10数人から30人に及ぶ一族が1軒の家屋に住む大家族制度が存在した。この制度は、家長夫妻とその弟姉妹および結婚した姉妹の子供、家長の長男夫婦とその弟姉妹などが分家しないで数世代にわたって共同生活を営むもので、日本ではこの地方独特の制度として学術的にも注目されたが、現在では消滅している。 白川郷と五箇山地方は、特別な地理的条件と気候的条件に加え、前述したように、山村における農業以外に塩硝や和紙の生産、養蚕と製糸などの多様な生業が営まれていた。また、信仰的にも浄土真宗の布教の歴史上において由緒深い地域であり、いまだに地域の人々は篤い信仰で結ばれ、日常の生活の中に信仰が生きている。 このような地域であるために、日常の生活用具をはじめ、塩硝や養蚕の生産用具などの民具、農耕や宗教に関する諸種の祭礼や行事、これに伴う歌謡や舞踊などの、民俗に関わる多種にわたり、かつ、たいへん特色的な文化財と資料が保存され、また、現在でも伝承されている