国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
世界遺産
主情報
名称
:
法隆寺地域の仏教建造物
ふりがな
:
ほうりゅうじちいきのぶっきょうけんぞうぶつ
構成資産
:
法隆寺、法起寺
登録基準1
:
「法隆寺地域の仏教建造物」は、全体的な意匠と細部装飾の双方の点において、木造建築の傑作である。
登録基準2
:
これらは、日本に仏教が伝来した直後にまでさかのぼる当国最初期の仏教建造物であり、後代の宗教建築に重大な影響を与えた。
登録基準3
:
登録基準4
:
法隆寺の建造物は、中国の仏教建築及び伽藍配置が日本文化に取り入れられ、後代に日本特有の様式を発展させたことを示している。
登録基準5
:
登録基準6
:
日本に仏教が伝来し、聖徳太子がこれを広めたことは、この文化圏に広く仏教が流布する上での重要な段階であったことを示している。
所在都道府県
:
奈良県
所在地(市区町村)
:
生駒郡斑鳩町
解説文:
詳細解説
法隆寺地域には世界最古の木造建築が数多く残っています。7世紀に法隆寺・法起寺ほかの仏教寺院が造営され、これらの寺院では現在も宗教活動が続けられています。法隆寺は、7世紀初期に創建がはじまり、現在の伽藍は西院及び東院と子院群で構成されています。西院は7世紀後半から8世紀初頭にかけて再建されたもので、東院は8世紀前半に建設されたものです。
構成資産
法隆寺
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史跡名勝天然記念物
法隆寺旧境内
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺金堂
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺五重塔
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺中門
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺廻廊 東廻廊
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺廻廊 西廻廊
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺大講堂
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺経蔵
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺鐘楼
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺上御堂(上堂)
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺南大門
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺西円堂
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺聖霊院
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺東室
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺食堂及び細殿 食堂
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺食堂及び細殿 細殿
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺東大門
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺三経院及び西室
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺妻室
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺綱封蔵
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺大湯屋
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺大湯屋表門
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺西院大垣 西面
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺西院大垣 東面
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺西院大垣 西面
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺東院夢殿
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺東院南門(不明門)
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺東院四脚門
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺東院礼堂
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺東院廻廊 東廻廊
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺東院廻廊 西廻廊
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺東院鐘楼
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺東院伝法堂
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺東院舎利殿及び絵殿
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺東院大垣 西面
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺東院大垣 東面
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺東院大垣 西面
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国宝・重要文化財(建造物)
北室院本堂
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国宝・重要文化財(建造物)
北室院表門
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺北室院太子殿
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺地蔵堂
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺新堂
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺東院四脚門
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国宝・重要文化財(建造物)
福園院本堂
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国宝・重要文化財(建造物)
西園院客殿
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国宝・重要文化財(建造物)
西園院上土門
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺西園院唐門
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国宝・重要文化財(建造物)
寶珠院本堂
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺薬師坊庫裡
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺中院本堂
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国宝・重要文化財(建造物)
律学院本堂
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国宝・重要文化財(建造物)
旧富貴寺羅漢堂
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺西院東南隅子院築垣 西面
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺西院東南隅子院築垣 北面
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺西院西南隅子院築垣 東面
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国宝・重要文化財(建造物)
法隆寺西院西南隅子院築垣 北面
法起寺
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国宝・重要文化財(建造物)
法起寺三重塔
解説文
法隆寺地域には世界最古の木造建築が数多く残っています。7世紀に法隆寺・法起寺ほかの仏教寺院が造営され、これらの寺院では現在も宗教活動が続けられています。法隆寺は、7世紀初期に創建がはじまり、現在の伽藍は西院及び東院と子院群で構成されています。西院は7世紀後半から8世紀初頭にかけて再建されたもので、東院は8世紀前半に建設されたものです。
詳細解説▶
詳細解説
仏教は中国から朝鮮半島を経由して6世紀中頃に日本に伝わった。7世紀、法隆寺地域では、天皇の皇子・摂政であった聖徳太子が法隆寺・中宮寺を建立し、また、天皇一族が、太子の病気平癒を祈って法輪寺を、さらに太子の没後、その宮跡に法起寺を建てた。 7世紀初頭に聖徳太子が創建した法隆寺はいったん670年に焼失する。その遺構は現在の法隆寺境内の地下に若草伽藍跡として残る。寺は、7世紀後半から8世紀初頭にかけて、場所を変更して、再建される。それが現存する法隆寺西院である。その建造物のうち、講堂のみは925年に焼失するが、990年にそれも再建される。 西院と並んで現在の法隆寺の中枢部を構成している東院は、8世紀前半に聖徳太子の斑鳩宮跡に太子の霊を祀るために建設された伽藍である。 法隆寺には西院と東院のほかにいくつかの子院がある。僧侶は古くは講堂周辺にある僧坊で共同で生活していたが、11世紀ごろから高僧とその弟子たちの集団がそれぞれ宗教活動を行う小寺院を設立し、そこで生活するようになる。それが子院である。いま法隆寺に残る子院の建造物の多くは16~17世紀にかけて建設されたものである、そのころ、西院・東院とあわせて、ほぼ今日に見る法隆寺全体の構えができあがったのである。 法隆寺は、古くは鎮護国家の寺として天皇家の保護を受け、さらに、12世紀ごろからは広く一般庶民の問に聖徳太子を尊崇する信仰がひろまり、太子創建の寺として多くの信者を集めて繁栄した。その維持修理には終始国家の厚い庇護があった。しかし、近代国家日本の出発である1868年の明治維新では、神道を重んじ、仏教を排斥する思想が尊重され、その趨勢のなかで法隆寺も衰えた。このため文化財の保護の必要性を認めた新政府は1897年に古社寺保存法を制定し、それによって新しく文化財の学術的な調査と保護の途が開かれた。その伝統は現在の文化財保護法に引継がれている。 法起寺は聖徳太子の遺命によってその宮であった岡本宮跡にその子の山背大兄王が7世紀に建立したと伝える。しかし、16世紀末、兵乱によって焼失し、わずかに三重塔のみが残る。この三重塔も法隆寺の歴史的建造物と同じく文化財保護法の保護下にある。